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出会いについて 出会いは、運命ではなく、生き物としての潜在意識が呼び込むもの
海神の木 波よ、もし聞こえるなら、どうか私の最後の歌を聞いて・・・
一瞬の光 本当に愛し合っていれば、セックスは一瞬一瞬があたかも小さな死なのだ
恋は決闘。もし右を見たり、左を見たりしてたら敗北です。
恋人と巧く別れる方法 それはゆっくりと相手との間に距離を置いていくこと
犬の話 ほんとうにありがとう。ばいばい。
11分間 セックスなんて、脱いだり着たり意味のない会話を除いた正味は11分間の問題だ
地獄の黙示録 戦場は地獄だから怖いのではない。戦場では、時に地獄が天国に見えるから怖いのだ
とても怖い話 やっと100階目前になった所で1人がいいました。「いいか?俺の話はすっごい怖いぞ。」
藍色夏恋 彼のシャツが風にそよぐのを見ながら考えた
斉藤一人 人間は苦しんではいけないのです。あなたは苦しんでいけないのです。
智恵子抄 そんなにもあなたはレモンを待っていた かなしく白くあかるい死の床で
美しい言葉 It's my pleasure.日本語に訳すと、「いいのよ、これは、わたしの楽しみでやってるの」
信用できない人 顔を伏せたとき、含み笑いする人
世界の中心で、愛を叫ぶ 記憶の中に 君を探すよ それだけで いい なくしたものを 越える 強さを 君がくれたから
思い違い勘違い 子供の頃、「灯台下暗し」を「東大モトクロス」だと思ってました。
いかないで 思い出はいつも綺麗な花びらみたい





思い出はいつも 綺麗な花びらみたい

間抜けな心 もてあそびながら
悲しみに追い込むよ

いかないで 誰もいない
僕を許してくれるのは 君以外に

信じられない
こんなに胸が痛いのに
いつか忘れるなんて

似たようなこと 何度繰り返して
いったいどこに辿り着けるの 

いかないで 誰もいない
僕を包んでくれるのは 
君以外に 本当にいないよ










勘違い・思い違い




  突然ですが、今まで勘違いしていたのに、それが正しいと思っていて、
  本当のことを知って、恥ずかしくなった経験てありますか?



横に降る雨
台風のニュースで、
暴風雨の時に、
「すごい横なぐりの雨です」
と言うのですが、
高校の時まで、
「横なぶり」
と思い込んでいました



恥ずかしながら
 子供の頃、「灯台下暗し」を「東大モトクロス」だと思ってました。全く意味は分からなかったのに、響きが好きでよく言ってました。あぁ。。



社会人になってから
たまたま友人と映画の話しをしていて、「あの映画のラストシーンはリンバカンがあってスゲーよかった」といったら、神妙な顔をされて「・・・おまえ、それをいうならリンジョウカンだろ!」と怒られました。(エッ、ウソ!)



台風一過
“台風一家”だと思っていました。

お父さん台風、
お母さん台風、
子供台風、
孫台風・・・



駐車場ネタ
月極駐車場を、大手「げっきょく」チェーンの
駐車場だと思っていました。
月極さんは金持ちだなぁ、と。

モータープールは
モーターで動くプールだと思っていました。
いつも前を通るたびに
「おかあさんモータープール行きたい」と
せがんでましたが、彼女は「今度ね」と言うだけで
大人になるまで教えてくれませんでした。



私は
関東平野をずっと「かんとうひらの」と言っていました



英語は本当に難しい。

英語検定3級の面接テストで、面接官の前で音読をしなければいけない文章中に「Mary&George」という人名が出てきました。

しかし、ここで学校の先生の言葉を思い出す。
「分からない単語でも、堂々と大きな声で読んだほうが印象が良いのよ!決して黙り込んじゃダメよ!」

だから私は大きな声で「メアリー&ゲロッジ!」と読みました。
その後、答にもその名前が登場した為、合計で3回ほど発音しました。

同じテストに当たった別室の友達にその話をしたところ、友達は「ゲ、ゲロ、ゲロ・・」と詰まっていたら、面接官が「ジョージ」と教えてくれたそうです。

私の面接官は、最後まで訂正してくれませんでした。
でも結果として合格だったので、ホッとしましたけど。


相撲
もろ差し

もろ出し
だと思っていましたー


不要家族
親から「あなたは私の扶養家族」といわれたとき、「不要家族」と勘違いして、泣き出しました。誤解が解けるまで「私は生まれてこないほうがよかった子」と思って暮らしていていました。


近視
小学生のころですが、ほんとの近眼になる前になるのは「火星近視」だと思ってました・・・。


ことわざ
「三つ子の魂百まで」
は三つ子に生まれたら百歳まで生きられることだと
ずっと思ってました。
しかも二十歳くらいまで。


えこひいきとネコひいき
某掲示板から






あの日 見せた泣き顔

なみだ照らす夕陽 肩のぬくもり

消し去ろうと願う度に

心が体が 君を覚えている


瞳をとじて 君を描くよ

それだけで いい

たとえ季節が 僕の心を置き去りにしても


記憶の中に 君を探すよ

それだけで  いい

なくしたものを 越える 強さを

君がくれたから



 avemaria セカチュー感想




信用できない人


ウソをつくというか、あまりあてにならん人間の、いちばん最初に判断しやすい材料といのは、時間を守る人かどうかということでしょう。

約束の時間を守らない人は、つまるところ責任感のない人間とみなして間違いないでしょう。たまたま電車が遅れるということもあるので全てがそうとは限りませんが、2回,3回も連続して遅刻してきたら「信用置けない」と距離をおいて見ていく必要があります。

ウソをつくときの目というのはあります。女の目で言えば、恥ずかしがるとき、頭も目も伏せます。でも、頭は恥ずかしそうに伏せていて、目だけ相手をじっと見詰めているときは、単に恥ずかしがっているのではなく、見つめる相手に興味を示しているのです。

また、顔を伏せたまま含み笑いをする人間は、なにか企んでいると思って間違いないです。素直な態度をしながら、顔を伏せたとき、ふ〜うと笑うような人も絶対に信用してはいけません。なにかよからぬことを考えている証拠です。

瞳孔の大小もウソを見破る手がかりになります。たとえば、ある女性が「あなたのことが好きです」と告白したとき、瞳孔が小さくなっていたら、言葉でウソをついていると見破れます。本当なら大きく瞳孔が開いているはずです。

女性は相手の目をじっと見詰めてウソをつき、男性はウソとつくとき目をそらす傾向になるのも覚えておいたほうがいいでしょう。また、左右どちらかに目をそらす場合は相手を否定しているときです。

青木雄二のエッセイから







美しい言葉ありますか?


My pleasure
Thank you.に対して、No,It's my pleasure.という答え方があって、日本語に訳すと、「ありがとう」「いいのよ、これは、わたしの楽しみでやってるの」といったところでしょうか。

日本語には、こんな定型はないのかもしれないけど、同じようなニュアンスを感じるやりとりをしているときがありませんか。

「気にせんでええんや。僕がそうしたいんや。」とか、「ええがな、ええがな。わたしが、そのほうがうれしいんや。」

美しい言葉、っていうのとは、ずれちゃってるかもしれないですけど、わたしは、そういう言葉に 美しさを、っていうかほんとのやさしさを感じちゃいます。
頂戴いたします 
この言葉を聞いたのは、名刺交換の時です。若い女性の税理士さんでした。私が差し出した名刺を受け取られる時にこうおっしゃいました。

「頂戴いたします。ありがとうございます」

爪が短く指輪もしない、化粧もごく薄く、シンプルなスーツ、上質のカバンやめがねケース、、、育ちのよさがわかります。

また帳簿を見るにも必ず「拝見いたします」と。確かにいくら税理士さんでも、うちの店の帳簿を見られるですから、そう言われるとホッとします。

以前お願いしていた担当の方が退職されるので「後任に」と連れてこられた初日。外見では若いからどうかなと思ったのですが、この一言で私の経営する小さな店の担当は彼女になりました。

手の温み

手って大事ですよね、大切な人には手で触りたいです。足で触りたくない(笑)ですよね?

手って、心とつながっていると思いませんか?
嫌いな人とは手なんてつなげませんよネ。

手の温みは、心の温み、命の温みだと思います。
やっぱ、人間だけの素晴らしいものですよ、この「手の温み」は。美しい言葉だと思います。

堪忍なぁ
美しい言葉とはちょっと違うかもしれないのですが。

「ごめんね」と言うところを関西弁で「かんにんな」と言われると素直になれたりします。

ごめんなさいという言葉も美しいのですけれど、「堪忍なぁ」と言われると負けます(笑)。クラっとしますね。
某掲示板より







そんなにもあなたはレモンを待っていた

かなしく白くあかるい死の床で

わたしの手からとった一つのレモンを

あなたのきれいな歯がガリリと咬んだ


トパーズ色の香気が立つ

その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱっとあなたの意識を正常にした


あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑う

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ


あなたの咽喉に嵐はあるが

こういう命の瀬戸際に

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた


それからひと時

昔山巓でしたような深呼吸を一つして

あなたの器官はそれなり止まった


写真の前に挿した桜の花かげに

すずしく光るレモンを今日も置こう


(高村光太郎「智恵子抄」より)






斉藤一人


物事を楽しい方楽しい方へと進むと、結局、楽しい人生にたどり着きます。それは、東京行きの電車に乗ると、東京に着くのと同じ事なんです。

楽しい人生を送る人は、他人のいいところを見つける達人でもあります。楽しくない人生なんてつまらないでしょう。わざわざ苦しむ必要なんてないんです。

偉大な業績は、そのことを本気で楽しんだ人からしか出ないんです。豊かさのない人は、どんなに才能があったとしても、生きているうちに決して認められることはありません。

画家のゴッホが良い例でしょう。彼は非常に才能豊かな画家でした。しかし、彼は豊かな心で絵を描きはしませんでした。苦しんで、苦しんで、苦しみながら、描きつづけていたのです。苦しんでいる人間が描いた絵というものは、その絵を描いた本人に、豊かさをもたらしてはくれないのです。

だから、彼は、生きているうちは誰からも認められませんでした。豊かにもなれませんでした。

人間は苦しんではいけないのです。
あなたは苦しんではいけないのです。

あなたが苦しむことによって、あなたのその苦しみから、新たな苦しみが生まれるのです。さらに奪われていくのです。

苦しんでいる不幸な人が、人を幸せにすることなんかできません。自分がまず楽しく生きなければ、相手も楽しくなるわけがないのです。

 

人生にはいくつもの分かれ道が出てきます。そのときは、どちらが正しいか、ということを絶対に考えないでください。どちらが楽しいか、を、判断基準にしてください。

正しいことを追いかけすぎると、楽しそうにしている人に腹が立つようになるのです。それが憎しみや傲慢さに変わるのです。宗教戦争も「キリスト教が正しい」とか「回教徒が正しい」とか言っているから起こるのです。

でも、「キリスト教が楽しい」とか、「回教徒が楽しい」と言っていたら「じゃあ、楽しいことが二つもあって、良かったね」ということになって、ケンカにはなりません。

楽しいを判断基準にするというのは、楽なほうを選ぶという意味ではありません。

会社をサボって寝ていると、クビになって、ホームレスになってしまいます。「これじゃ楽しくない」。だったら、会社に行く。そして、会社に行ったらブスっとしているよりも、笑顔でやったほうがいいはずです。

そうすれば上司からも、同僚からも、お客さんからも好かれて、敵もいなくなります。仕事も楽しく楽にできます。

楽しいほうを極めていくと、楽になります。

すると、人は自然と苦労の扉を開けなくなっていくのです。楽しい方のドアの向こうは、楽しいことがてんこ盛り。正しい方のドアの向こうは、苦労がてんこ盛りなんです。

極楽とは楽しいを極めること。楽しいを極めれば、この世は天国なのです

 
成功するにはどうすればいいか。それは簡単です。

「ツイている」と言えばいいのです。毎日どんな小さなことでもいいから見つけて「自分はツイている」と何十回も口にだして唱えることです。

朝起きて目が開いただけでも(目が開かない人もいます)「自分はツイている」と思うことです。そしてツイていると言葉に出して言うだけでいいのです。

ツイているツイているといっているうちに本当にツキを呼び寄せるのです。でも思うだけじゃダメです。

言葉に出して言わなければツキは入ってこないのです。周りの人に、「今日はツイている」といい続けることで、ツキが回ってくるのです。





藍色夏恋


彼のシャツが風にそよぐのを
見ながら考えた


私たちは1年後か3年後か5年後
どう変わっているのか


きっとあなたは明るくて誠実で
格好よくなっている

何年後かに会うあなたは
午後3時の日差しの中
青い正門の前でにきび顔で微笑み

私が「元気?」と声を掛けると
小さくうなずくだろう

3年後か5年後あるいはもっと先の私は
どんな大人になっているのだろう

目を閉じても私の姿は浮かんでこない
でもあなたの姿は見えてくる




とても怖い話


あるところに大きなホテルがあり、
ここに皆で泊まる事になりました

でも、そこはエレベーターが
故障で使えませんでした

ロビーで鍵を貰うと部屋は100階で
しょうがなく100階まで階段で行く事になりました。

疲れてしまうので怖い話でもして
気を紛らわす事になり、
みんなで怖い話をしながら階段をのぼりました。


やっと100階目前になった所で1人がいいました。
「いいか?俺の話はすっごい怖いぞ。」

みんながツバをゴクリと飲み耳を傾けました


「1階のロビーに鍵を忘れてきた。」





地獄の黙示録


「面白い。それは、これまでの映画の表現を数歩踏み越えた、
勇猛でエネルギッシュな表現が掴んでみせた面白さだ。
 
この映画は難解ではない。
変に理屈っぽく見るから、そう思うのだ。
 
恐怖は、人間を支配し、異常な状態に追い込む。
戦場で人間が、異常に勇敢になるのも、惨虐になるのも、また奇妙なことに熱中するのも、すべて恐怖から逃避するためだ。
 
恐怖から逃れるためには人は何を考え何をするかわからない。

戦場は地獄だから怖いのではない。
戦場では、時に地獄が天国に見えるから怖いのだ。
そういう人間というものが怖いのだ。」

「地獄の黙示録の感想」黒沢明







「11分間」

「セックスなんて11分間の問題だ。脱いだり着たり意味のない会話を除いた正味は11分間。世界はたった11分間しかかからない、そんな何かを中心にまわっている――。」 

セックスは、嘘をつくのがあたりまえの生活の一分野だ。われわれは他人を喜ばせるために嘘をつくが、それが人生で大切なことすべてに影響を与える可能性があり、実際そうなることを理解していない。

われわれはセックスが愛と呼ばれる精神のエネルギーの現れだというのを忘れている。


性行為のあいだ互いに相反する二つの状態が一緒に起きている。それは緊張と弛緩である。 この二つの状態を両立させるにはどうしたらよいだろう?たやすいことだ――間違いを犯すのを恐れなければいい。

心の底から真剣に喜びを求め始めると、心の導くままになる。そして心は五感をすべて用いて相手に自らをさらけ出す。奇妙なことに、性的な接触で、人はたいてい触覚と視覚しか使わず、その結果、十分な充実感を得られずにいる。


もし自分を完全にさらけ出せば、どんなに強固なものだろうと、パートナーの中にあるかもしれない精神面での障壁を突き破ることができるだろう。自分をさらけ出すという行為は「相手を信頼している」ことを意味するからだ。

今日のセックスは行為のあいだは緊張感を、終わると空しさを生み出す。

二つの肉体が出会う時には、共に未知の領域へ踏み入ることになると承知しておくべきだ。これをまったく陳腐な体験にしてしまうと、冒険のすばらしさはすべて失われてしまう。


セックスというのは、自分自身の持つパラドクスや個性、完全に身をゆだねる意志を体験する勇気を持つことだ。それゆえわたしは『11分間』を書いた。

五十五歳という年齢にある今、その問題について人生が教えてくれようとするすべてを学ぶ勇気が自分にあるかどうか知るために。


パウロ・コエーリョ   二〇〇三年七月




犬の話


名前: コピペです。 投稿日: 02/07/11 02:14

1月に、11年間飼ってた愛犬がなくなった。 死ぬ前の半年間、自分は、ろくに家に帰ってなくて、 世話もほとんどしなかった。その間に、どんどん衰えてたのに、 あまり見ることも、触ることもなく、その日を迎えてしまった。


前日の夜に、もう私とはほとんど会話がなくなっていた母が、兄と一緒に私の部屋にきて、 「もう、動かなくなって、息だけしてるの。目も、開いたままとじれない。

最後だから、お別れしてきなさい。」と泣きながら言ってきた。そこまでだったなんて、知らなくて、びっくりして、下に下りてったら、コタツに横たわってた。ほんとに息だけしかしてなくて、だんだん息も弱くなってるのが わかった。


怒りっぽい犬で、触るだけで唸るのに、その日は、なにも反応がなかった。母と兄と、3人で、泣きながら朝まで見守った。結局、次の日、単身赴任の父が帰ってきてすぐに、息を引き取った。父のことが大好きだったから、きっと待ってたんだと思う。家族全員そろうのを待ってたんだな。って思う。


死ぬ間際に、飲んだ水はすごくおいしかったよね。幸せだったよね。なによりも、本当に、ろくに家に帰らず遊んでばかりいて、あなたの世話をしていなかったことを、悔やんでる。


父も母も兄も、泣きじゃくる中、あたしは、後悔ばかりが心に残って、 あまり泣くことも出来なかった。おまえが死んでから、おかあさんとも会話するようになったよ。

今まで、おかあさんの話し相手はおまえだったもんね。おまえのおかげで、自分がどんなに親を悲しませてたかわかった。


犬にまであたしのこと相談するくらい、おかあさん悩んでたんだね。おまえが死んでふさぎがちだった母も、最近元気になったよ。安心して、眠ってね。


昨日、死んでから、初めて、あなたの夢を見ました。

朝起きて、泣きました。
ほんとうにありがとう。ばいばい。
  ・・・・長ったらしくごめんなさい。






恋人と巧く別れる方法


ドロドロの修羅場にならず、恋人とすっきりと別れる方法はないのでしょうか。心理学的見地から考えてみると、以下の方法が最も効果的です。

その方法とは、ほんの少しずつ、数ミリ単位で離れるつもりで、ゆっくりと相手との間に距離を置いていくことです。

たとえば、週に三回逢っていたカップルなら、そのうち2回は会って一回はрナすます。そのあと、また週三回のペースを挟み込んでから、今度は週二回のペースでデートを重ねていく。

メールの返事も相手に気がつかれないよう、じわりじわりと返事のタイミングを遅らせていく。ミリ単位で。

ポイントはとにかくあせらないこと。あなたはもう飽きていても、相手の方はまだあなたに十分関心があるのだから。

心理学者ザイアンスの実験で、被験者に何度も写真を見せた人物は、少ない人よりも、より好感を持たれたというデータがあります。これは実際の人物に引き合わせたときも同じ結果になりました。

このように何回も接触することで、好感をもつことになるのですから、逆に会う機会を減らせば、その人への関心や好意も薄れていくのです。



参)上手な別れ話







恋は決闘。

もし右を見たり、左を見たりしてたら敗北です。

ロマン・ロラン




十人十色というからには、

心の数だけ、恋の種類があってもいい

トルストイ




ほんとうの恋が

平穏無事にすんだためしはない。

シェイクスピア




恋っていうのは、それはもう、

ため息と涙でできたものですよ。

シェイクスピア




そうさ、

大事なことは 目に見えないんだよ。

サン・テグジュペリ






Every day I listen to my heart
 
ひとりじゃない

深い胸の奥で つながってる
 
果てしない時を越えて 輝く星が

出会えた奇跡 教えてくれる


Every day I listen to my heart
 
ひとりじゃない

この宇宙(そら)の御胸(みむね)に 抱(いだ)かれて


わたしのこの両手で 何ができるの?

痛みに触れさせて そっと目を閉じて


夢を失うよりも  悲しいことは

自分を信じて あげられないこと

 
愛を学ぶために 孤独があるなら
 
意味のないことなど 起こりはしない


こころの静寂(しじま)に 耳を澄まして


わたしを呼んだなら どこへでも行くわ
  
あなたのその涙 わたしのものに


今は 自分を 抱きしめて

命のぬくもり 感じて


わたしたちは誰も ひとりじゃない

ありのままでずっと 愛されてる
 
望むように生きて 輝く未来を
  
いつまでも歌うわ あなたのために






「自分がやりたいことっていえば、私は『愛されたい』っていうことかな」

「でも『愛される』っていうのは、誰かから貰うのであって、そのためにはまず誰かを真剣に『愛する』ことが必要じゃないか。何かしたいというなら、『誰かを深く愛したい』と考えなければいけないんじゃないのかい」



結局、彼が死なねばならなかったのは、決定的な孤独感に苛まされていたからだ。

人は生れ落ちた瞬間、誰もが祝福の光を浴びている。幾筋もの光が、困難な生を導くために、それぞれが歩いていく道を照らしている。

生きることは次第にその光を見失う行為だ。星のように無数にきらめいていた光はつぎつぎと消え、やがて三つになり二つになり、ついに一つになる。そしてその最後の光が絶えた瞬間、人は闇に呑み込まれ自らを喪失する。

野心や理想は必然的に人間関係の破壊をもたらす。人を焼き尽くし、食い尽くすことでしか人間は自己の妄想を世界に実現し固定化できない。そういった意味で彼の陥った孤独は、彼自身の選択の結果でしかあるまい。


私にも好きな言葉があった。学生時代に読んだ『歴史の研究』の中でアーノルドトインビーはこう書いている。

<生の最中、我々は死の中にいる。誕生の瞬間から常に人間は、いつ死ぬか分からない可能性がある。そしてこの可能性は必然的に遅かれ早かれ既成事実になる。理想的にはすべて人間が人生の一瞬一瞬を、次の瞬間が最後の瞬間となるかのように生きなければならない>

次の瞬間が最後の瞬間であるのなら、どの瞬間も光輝く至上の時間なのだ。



本当に愛し合っていれば、セックスは一瞬一瞬があたかも小さな死なのだと彼女は言った。

まるで心中したような気持ちになって、嫌なことは消えうせ、自分さえも忘れることができるのだと。そして世界は美しく姿を変え、この世のありとあらゆるものすべてを愛することが可能になるのだと―。

いまこうしてルイを抱きながら、彼女の紡ぐ小さな死の連続に引き付けられている自分を感ずる。次の瞬間が死であるからこそ、いまこの瞬間を失ってはならないと私は生きてきた。しかし、彼女は愛によって一瞬一瞬を小さな死として受容できるのだ。

それは男には獲得できない感覚だ。男はどうあがいてみても一度きりの生をただ遮二無二駆け抜けるしかない。だが、女は自らの生を瞬間瞬間で再生していく。


一瞬の光から



自分を愛せない者に、他人を愛することはできない





海神の木


死しか為すすべの無い二人
 
赤く錆びた月灯りの夜に
小さな船をうかべましょう

うすく透明な風は
二人を遠く遠くに流しました

あての無い海原を
どこまでもまっすぐに進んで

同じ所をぐるぐる廻って

星もない暗闇のなかで
彷徨う二人が唄う最後の歌

波よ、もし、聞えるなら
少し、今、声をひそめて
私たちの歌を聞いておくれ



私が海に沈み
あなたはどこかに流れていった

私の足が海の底を捉えて砂にふれたころ
あなたにわかるように
 
長い髪は枝となって
やがて大きな花をつけました

ここにいるよ、あなたが迷わぬように
ここにいるよ、あなたが探さぬよう






出会い

少し自己中心的な話になるが、僕の目からは、いつも世界は自分を中心に回って見えるのである。

きっとあなたもそうに違いない。あなたの周りで起こることは、全てあなたのその人生というステージのために用意されたセットのようなものだ。

僕たちは、この一度の人生の中で、多くの人と出会い、別れていく。会っている間は相手のこともよく分かり、その人のことをしょっしゅう考えているが、目の前から一旦消えると、もうわからなくなってしまい、そのうち薄れていく。

僕は人と出会いを繰り返していく中で、それはどうしてだろうと考えた。それは、ある演出家の意図によって、そのシナリオどおり、用意された舞台で演技しているのではないか。だから駅に佇む人や、雑踏を構成する人たちは皆、エキストラさんである。

かなり無謀な考え方であるが、僕はこの考え方が好きだ。僕の前から消える人たちは、別のところで別の人生を送っているのではなく、舞台の袖の控え室でタバコでも吸って休んでいるのである。その間僕は別の役者さんと真剣に演技をしているのである。

その演出家というのが神なのであろう。

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さて、最近は出会いについては、こんな風に考えている。

出会いは運命ではなく、生き物としての潜在意識が呼び込むものであると。ちょっとオカルト的であるが、人は無意識の中で会いたいと思っている人を呼んでいるのだ。

考えてみれば、自分が出会う人は全て、いやな奴もすばらしい奴も、自分には必要な人たちなのである。

僕は人との出会いというものは意味が必ずあるのだと信じてやまない。だからこそ心の中でよい出会いを望みつづけなければならない。

不思議な出会いというものに何か思い当たるふしのある方ならわかるだろう。生きているうちには、計算しきれないことや、想像よりすごいことが起こりえるのである。

そういうものをオカルトととらず、意識の力として肯定していけたなら、運命も出会いも広がり、また強くなるのではないかと自得している。


辻仁成







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