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武士道 明日、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、どうして書く一行に力がこもるか!
レディファースト それが尊敬ではなく、弱者として保護されている事に気がついて憤慨するものがいない
サムライ われわれはもっと野蛮人であることを誇りにすべきである。
大人が泣くとき 大人は、失ったものと出会って泣く。もう、あれは失われてしまったのだと思い知って泣くのである。
大人になること 本当に人を好きになると、人は臆病になるものなんだ。
感謝 人は誰も皆、気づいてないかもしれないけど、もの凄いやさしさを与えられながら生きている
善と悪 神様は、悪ってなに?善ってなに?って疑問を解くためにこの世界を創造された
デスペラード 目を覚ましたらどうだい もう長い間フェンスの上に腰掛けてるね 頑固者だね、君ってやつは
鬱(うつ)病の患者には、決して励ましの言葉をかけてはいけない。
やさしい話 Thank you, Shinjo. You're my hero!(サンキュー新庄、あんたは僕らのヒーローだぜ!)
上善如水 最も美しい生き方、理想的な生き方とは、水のような生き方ではないだろうか
片目を失って 「僕は、きみとおすぎを『縦糸』の友達にしたからね……」
閃き 閃(ひらめ)いて即行動に移すのは、勇気が要ります
男の誘い方 誘い方のコツは、理由なんてどうでもいいから、とにかく「〜だから」という言葉をくっつけてしまえ!
姓名判断 名前を変えるなんて、逃げですよ。





クイーンの泣ける曲

TOO MUCH LOVE WILL KILL YOU

元々ギターのブライアンのソロアルバムの曲。フレディがこの曲を気に入ってクイーンの曲として録音された。当時フレディはエイズの闘病中で、死期を悟った自らを振り返る思いで唄ったともいわれてる。この曲はフレディの死後、発表された。







姓名判断



  「なぜ名前を変えられたのですか」

  ―姓名判断で言われまして

  「その名前だと、どうなると言われたのですか」

  ―とにかく良くないと言われましたので


ある方から電話がかかってきまして「姓名判断でみてもらったら、苦労するから名前を変えたほうがいいと言われた」とおっしゃるのです。

でも、名前って、意味なくついているものではないのです。意味があってついているのですよ。

だから苦労する名前だったら、それは苦労を味わう為にこの世界に来たのです。「苦労するというのは、どういうことなんだろう」と味わいたいから、そういう名前が選ばれたのです。

だから、苦労をじっくり味わったほうがいいのです。そこに何らかの理由があるのです。

名前を変えるなんて、逃げですよ。

逃げたら延々と逃げ続けなければならなくなります。それはとても辛いことです。逃げないでシッカリ味わってクリアーしたほうがいいのです。クリアしたらすごく楽になります。


足立幸子さんのエッセイより










今回のテーマは「男の誘い方」。

美川憲一
も大喜びの内容ですので、ぜひ読んでみてくださいね。



心理学者ランガーによって、こんな実験が行われたことがありました。

コピーを取っている人に近づいて、以下のA〜Cの言葉をかけながら、先にコピーをさせてくれるように頼んだのです。


A「先にコピーを取らせてくれませんか?」と、普通に頼む。

B「急いでいるので、先にコピーを取らせてくれませんか?」
 と、理由を言いながら頼む。

C「コピーを取らなければいけないので、先にコピーを取らせてくれませんか?」と、ぜんぜん理由になってない理由を言いながら頼む。



…するとその結果、承諾率は、Aが60%で、Bが94%でした。
ここまでは納得できるはず。

でも、ここからがこの実験の面白いトコ。なんと、Cの承諾率は「93%」で、ほとんどBの場合と変わらなかったのです。

すなわち…。大切なのは理由をつけること。

理由なんてどうでもいいから、とにかく「〜だから」という言葉をくっつけてしまえ!ということ。

この実験でも示されているとおり、たとえちょっとヘンな理由であっても、
「その理由はよくよく考えるとおかしくない?」
なんて考える余裕は、普通の人にはありません。


「見たい映画があるから、一緒に行こうよ」
「一度話したかったから、飲みに行こう」
「時間が空いたから、ちょっとご飯でも食べない?」

こういうだけで、誘いの成功率は格段に変わるのです。
ちなみに今回の冒頭のセリフではそれを実験してみました。

「美川憲一も大喜びの内容ですので、ぜひ読んでみてくださいね。」
意味が分かりません。なぜここで急に美川憲一?

でも、なんか続きを読みたくなりませんか?
これこそが「〜なので」のマジックなのです。

・・・

そう。だから、あなたの言葉が、全ての「理由」になるのです。

一緒に遊びに行きたい。
ご飯を食べたい。
大切な時間を過ごしたい。

小さくてもいいので、その気持ちを言葉にしてください。
みんな、そうなんです。
ほとんど99%の女性が、誘われず、そして迷っているんです。

「一番悲しいのは、あなたの想いをためこんで、そして忘れてしまうこと」

今感じていることが消えてしまう前に、言葉にしてください。
言葉にしてみれば、不思議なほどに気持ちが楽になるはずですよ。



excite 「男の誘い方」より









「閃き」



閃(ひらめ)いて即行動に移すのは、勇気が要りますよね。でも勇気を出して、とにかく行動することが大事なのです。

「なんだか分からないけど・・・」というのも、閃きです。「なんだか分からないけど、あの人に電話したほうがいいみたい」とか「なんだか分からないけど、あそこに行ったほうがいい」というのがいっぱいあると思います。

これを行動に移すのは、勇気が要ります。でも「考えてもどうしようもない」ようなときは、即行動に移したほうがいいのです。

たとえば「なんだか分からないけど、あの人に電話したほうがいいみたい」と思いますよね。そのとき時計を見ますとお昼の12時を過ぎていて、「待てよ、もうお昼ご飯でいないはずだ。1時になってから電話しよう」と考えるわけですよ。でも1時過ぎてから電話すると「今日はお昼に出たままもどりません」ということになってしまうのです。

ところが閃いた時というのは、なぜかベストタイミングで来ているのです。閃きというのは、自分のある深い部分からの情報なのです。だから、「今、電話したほうがいいよ」と閃いたその時に電話すれば、相手はおられるのです。

私はこれを何回も実験してみました。ぱっと「電話したいな」と閃いたときに、まずいないだろうという状況のときでも、相手はいるのです。勇気を出さず、躊躇してしまうとダメです。即行動すると、必ずタイミングぴったりなのです。

とにかく「なんだか分からないけど」というのは、実はベストタイミングなのです。ですから、これからは根拠の無い閃きを、重要視すべきなのです。なんだか分からないけど、たとえば「京都に行ったほうがいい」と思ったら即行動すべきなのです。そこには必然性のある、なにかがあるのです。

閃き、インスピレーションを大切にしてください。

足立幸子さんのエッセイから








「片目を失って見えてきたもの」



前日の晩は、誰にも手術の話をしても泣かないと決めていたのですが、家族の顔を見るとがんばりきれず、涙が次から次へ出てきてしまうのです。もう止めようにも止められません。摘出しなければならない左目からも、涙があふれてきます。

上の姉は、ただ子どものようにすすり泣く私の背中を、やさしくさすって、こう言ってくれました。「神様、目が欲しいのなら、ひとつだけあげましょう。だから、もう、お願いです。この子からこれ以上、何もとらないで」

私はまた泣きだしてしまいました。三歳から脊髄カリエスで体が不自由な下の姉も、「ああ、私の目を代わりにあげたい。もう、私の体には何もいらないのだから……」と言ってくれました。

ああ、私はなんて勝手だったんだと、そのときに思いました。他人のことを思いやる気持ちが私には少し薄れていたのです。どうして、自分だけが甘えて泣いたりしているんだろう。(がんばるのよ、ピーコ!) 私は嗚咽しながら、自分で自分を励ましつづけていました。
 
その頃おすぎは、毎日、忙しそうに飛びまわっていました。私の入院にどれだけの費用がかかるかわからないから、マネージャーに言って、ありとあらゆる仕事をすべて引き受け、年内いっぱい一日の休みもないくらい働く決心だったのです。(お金のことは心配しなくていいからね。あたしが一生懸命働くから……入院してもそんなにお見舞いに行けないけど、薄情な弟だと思わないで。ごめんね。)

ふだん、なんでもなく生活していたときはそんなこと考えもしないのに、死がとても身近なものになって、はじめて人は、自分が一人で生きてきたのではないことに気づくものなのでしょうか。そんな人たちの存在が、ありがたくてありがたくて胸がいっぱいになりました。「なんて私は幸せなんだろう」

ガンにならなければ、その人たちのありがたみに気づかなかったなんて、私はなんてばかだったんでしょう。

永六輔さんに言われた言葉は、一生忘れられません。いまでも思い出すと、目頭が熱くなってきます。

「僕は、きみとおすぎを『縦糸』の友達にしたからね……」
「え、どういうこと?」
「織物は縦糸が決まらないと、横糸がひっかからない。つまり、縦糸は一生の友、横糸は一過性の友ということだよ。これはきみたちの問題じゃないんだ。僕が勝手に決めたことだから。きみが何をしようと、きみがどんな意地悪な口を叩こうと、僕は絶対にきみたちに怒らない。だって、きみたちは縦糸の友達なんだもの」

たしかに、永さんの言うとおりかもしれません。本当の友達とは、そういう関係でなければならないのだと思います



「片目を失って見えてきたもの」から









「ベルリン天使の詩」


「ベルリン天使の詩」という映画があります。

この映画は天使の側から見た時は画面が白黒に映り、人間の側から見た時はカラーで映るのです。

そして天使がサーカスに出ている女性に恋をして、女性の体に触るのですが、肉体がないので触覚もありませんから、女性の体が柔らかいのか硬いのか、冷たいのか暖かいのかわからないわけですよ。

それでどうしても感覚を味わいたくて、羽を捨てて堕天使になって、冬のベルリンに降り立つという話です。

天使が人間として初めて、ホットコーヒーを飲みます。そしてカップに触って、「熱いというのは、こういう感じなんだ」と知るのですね。

このように肉体を持つことによって感覚や感情を持つわけで、私達も「楽しいとはどういうことか、悲しいとはどういうことか、苦しいとはどういうことか」を味わう為に肉体を持って地球に来たのです。ですから、ジックリ味わった方がいいと思います。

楽しいことならジックリ味わえますが、イヤなこととなると急に人のせいにして逃げてしまういたくなります。でもイヤなことも味わう為に地球に来たのですから、ジックリ味わって、そしてそれをクリアして次にいくのがいいのです。

逃げるとやり残しをつくるわけで、それは絶対いつかやらなければいけないのです。来たことは全部意味があって来たのですから、いっさい逃げないで、来たときに全部受け入れて、ジックリ味わった方がいいのです。だからトラブルは、自分を成長させるために来ると考えればよいのです。









上善如水


老子は言う。上善水の如し。(じょうぜんみずのごとし)
 
最も美しい生き方、理想的な生き方とは、水のような生き方ではないだろうか。

水は入れる器によって、その形を柔軟に変え、自らの形を持たず、相手に合わせながら生きています。けれど決して自分の存在を否定はしません。
 
水は低いところに流れます。
皆が好まない低い位置に流れていきます。
だがそれは川に流れこみ、海となって、大きな存在となります。
 
水はこのように謙虚に生き、大きな存在となっていきます。

それだけでなく水は、あたりまえのように万物に、生と恵みと利得を与え、生き続けているのです。










やさしい話



マリナーズ傘下のタコマから、トレードでケニーがやって来た。彼が合流した日、監督のボビーは5人の外野手を集め小さなミーティングを開いた。

「外野手は3人、DHを入れても4人だ。タイズの外野陣は5人になった。
 毎日プレー出来ない選手が最低でも1人は出てくるが理解するように」

ミーティングが終わると、新庄さんは他の4人に気づかれないようにボビーに近づきこう言った。

「彼ら若手にはメジャーの舞台を経験して欲しいから、彼らにチャンスを与えて下さい。もちろん自分の出番は全力でプレーします。だから若手を使う時は遠慮なくお願いします」

昨シーズンはこんな事もあった。

僕らが所属していたジャイアンツは、シーズン161試合目の9月28日にプレーオフ進出を決め、翌29日の最終戦、400打席にあと6打席足りなかった新庄さんは6番センターでスタメンだった。

試合前のベンチでは、ダスティ(ベーカー監督)が珍しく新庄さんに詰め寄ってきた。

「何で今まで黙っていたんだ!あと6打席だろ!そしたら今日だって1番に入れたのに!」

新庄さんはいつもの笑顔で、しかし冷静に力強くこう切り替えした。
「チームが最後まで(ワイルドカード枠を)争ってたから、
 個人的なことでチームに迷惑を掛けたくなかったのです。」

400打席のインセンティブ契約を結んでいた新庄さんは、数十万ドル獲得にあと6打席必要だった。

そんな最終戦、新庄さんは走った。MLBの未来を担う輝くルーキーのために。8番・ショートでメジャー初スタメンだったコーディは、レフト線に二塁打をかっ飛ばした。1塁ランナーの新庄さんはセカンドベースを蹴った辺りからギアをトップに入れ、もの凄いスピードでホームベースを駆け抜けた。風のように速かった。

8回裏には代打でランスが登場した。2002年の開幕を1Aで迎えたランスは、22歳の若手捕手だ。再び1塁ランナーだった新庄さんは、右中間に飛んだランスの当たりを耳だけで捉えると、打球には全く目をくれず、すごい形相でホームベースに滑り込んだ。泥だらけの左膝を切りながら。

新庄さんは僅かに足らない「2打席」を決して嘆くことはせず、言わば消化ゲームの誰にも評価されない「2得点」に果敢に挑んだ。名もなき2人の笑顔のために。

試合後のクラブハウスでは、アトランタとのプレーオフを睨み意気揚々のナインとは対照的に、即座にロッカーを空っぽにして、秋季リーグに向かうコーディとランスが、そろって声を掛けてきた。

『Thank you, Shinjo. You're my hero!(サンキュー新庄、あんたは僕らのヒーローだぜ!)』

あなたの優しさは、多くの人には伝わらないかもしれないけど、当事者たちは知っています。あなたがとっても優しいってことを。あなたの優しさが本物だってことを。



NYメッツ通訳・小島克典さんのコラムから
2003/08/11





新庄関連ー泣ける男新庄







鬱〜落ち込みに関して


落ち込んだとき励まされると、普通はやる気が出て元気になり、その相手に感謝するものだ。しかし、鬱(うつ)病の患者には、決して励ましの言葉をかけてはいけない。ガンバレと言ってはいけない。落ち込んだ患者を励ますと、へたすると自殺してしまうのだ。

鬱病の人にとって、相当に辛く感じる曲があるという。それは、クレージーケンバンドの「あ、やるときゃやらなきゃダメなのよ」という歌である。

某サイトにこういう書き込みがあった。



「やればできるよ できるよやれば やるしかないんだから やらなきゃダメですよ」

といった歌詞だったと思うのだが、私のように先天的に鬱/境界例の傾向を持つ人間にとってみれば、こうしたメッセージは逆にものすごくネガティヴに響いてしまう。いや、もちろんアーティスト側に悪意がない事は理解しているし、そのまま前向きなメッセージとして受け取る事もできなくはないのだが、どうしても


 やればできるよ(→やってもできなかったらどうしよう)
 できるよやれば(→ホントにもうこれしかないって所まで来て勝負
 かけてやってみても、できなかったらどうしよう)
 やるしかないんだから(→や、やるしかない…!もう逃げ道がない!
 あああー)
 やらなきゃダメですよ(→だ、ダメ…ダメ…ダメ…きっとできない俺
 は決定的にダメ人間。ひいいい。さようなら)

 といった具合に思考回路が働いてしまうのだ。



だそうです。うううむ。












デスペラード



ならず者よ 目を覚ましたらどうだい
もう長い間フェンスの上に腰掛けてるね
頑固者だね、君ってやつは

自分なりの理由があるのはわかるけど
君が楽しいって思っていることが
本当は自分自身を傷つけているんだよ

ダイヤのクイーンを引くだなんて
場合によっては君は負けちゃうんだよ
ハートのクイーンが一番いい手なのを知っているくせに

ボクにはいいと思えるカードが
テーブルに並んでるのに
君は手に入らないような凄い手しか狙わないんだね

ならず者よ 君はもう若くないんだぜ
自由になりたいって
そういう人間もいるけどね
君はこの世を一人ぼっちで歩いているだけなのさ

ならず者よ 目を覚ましたらどうなんだい
さあ フェンスから降りて ゲートを開けなよ
雨が降っていても 虹だって頭の上にあるのさ
誰かに君を愛してもらいなよ 遅くならないうちに


映画「インアメリカ〜三つの願い事(感想)」で劇中使用される歌







善と悪


神様という存在は悪も善もすべてが混ざった存在であり、神様は悪ってなに?善ってなに?って疑問を解くためにこの世界を創造されたっていう説があるんだよ。私はこの説おもしろくて好き。

聖書の創世記では神様は自分に似せて人間を作ったていうじゃん、私達人間も自分の中にある善と悪ってなんだろう?って思って、善と悪を舞台とした物語をつくったりするよね、それと一緒なんじゃないかなぁって思うのだ。

全てのものには意味があるんだもん、私達の存在理由ってなんだろう?どうして生まれたの?って考えてみると、そういう可能性もあるのかもしれないなぁって思う。

そう考えていくと、世の中善か悪かどちらか1つになってしまったら、私達の存在理由ってなくなってしまうかもしれないね。

人間は善と悪の象徴であるから人間であって、そうじゃなくなったらなんでもなくなっちゃっうかも。それが私達のゴールなのかもしれないけど、ゴールについた時こそが世界の終わりかもね。

存在しつづける限りは善と悪は存在しなくちゃならないのかもしれないなぁ。善があるから悪がある、不幸があるから幸せを感じる。

結局人間は自分より惨めで愚かでかわいそうな他人がいないと自分の幸せ、喜びを感じる事が出来ない。幸せを感じるには不幸な誰かが必要なんだ、だからやっぱり善悪は無くならないね。


渡辺杏さんの日記から 参)あるがままという考え方







“人がその友のために命を捨てること。それより大きな愛はない”

見返りを求めず、自分の身を投げうつことが愛というならば、私がささやかにしている行為など、愛の足元にも及ばない。
 
私は胸が苦しくなった。
 
してもらうことを望むより、してあげることの喜びを感じられるほうがいい。偽善でも見返りを求めるような気持ちがあっても、やさしさを表さぬよりは、表したほうがいい。

けれども、そこは第一のステップにすぎない。その上に、階段はずっと続いているのである。

友人はたぶん、そういうことを言いたかったのだろう。けれども、だとしたらいったい私はどうしたらいいのだろう。どんなふうにすれば、せめてもう一段、階段を上がれるだろう。




電車の中で気づいたことを素直に告げた後、どうすればいいのだろうと尋ねたら、彼は笑いながら言った。

「感謝感謝」

「え?」

「神や仏の愛はもちろんだろうけれど、たとえば……

植物はさ、あなたのために無償で空気を提供してくれてるんだし、太陽はさ、何の見返りもなくあなたを暖めてくれてる。

人は誰も皆、気づいてないかもしれないけど、もの凄い
やさしさを与えられながら生きているわけよ。

それを思えば、君は誰かに何かをしてあげた時、きっと自己満足なんかしないと思う。

むしろ、あたりまえだと思っていた街路樹や木漏れ陽にサンキューって、言いたい気分になると思う。偉そうなこと、俺も言えないけどね」
 

全文







本当に人を好きになると

人は 臆病になるものなんだ。
 
嫌われたくなくて、失いたくなくて

本当のことを言えなくなる。
 

一番好きな人とは結婚できないって言うよね。

別の人と結婚して、時々その人を想い出す。
 

大人になるって、そういうことなのかも知れないね。
 

             
 
「ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ」より









あの頃はよかった。

そう思うとしたら、自分がもう大人になってしまったからなのだろう。

記憶というのは、いつの間にか懐かしくいい匂いのするものにつくりかえられてしまう。

あの頃はなにも知らなかった。

なんにもわかっていなかった。

だからこそ、あきれるほどに無防備に勇敢でいられたし、好きなだけ臆病で孤独にいられた。


あの頃出逢った人たちを何人思い出すことができるだろう。

ともだちと呼んでいた人たちは、いま、何をしているのか。もう会えない人もいる、行方さえしれぬ人も。


大人は、失ったものと出会って泣く。

もう、あれは失われてしまったのだと思い知って泣くのである。

そのとき記憶はただ懐かしくていい匂いのするものではなくなる。

ぼうっとしたひとりのこどもが、満身創痍になりながら、「おまえはだれだ」と聞いてくる。

おまえはわたしでなかったか。

やがて、ぼうっとしたひとりのこどもが死んで、わたしはいまここにいる。

おまえはわたしではなかったのか。

なくしたものに切り裂かれて、おとなは、身もだえして泣くのだ。そうだ。あれがわたしだったのだと。


文)瀧 晴己











サムライ



ある時、イギリス人の貴婦人の前で日本刀の話が出て、「日本刀はどうやって使うのか」と聞かれた。

私は彼女の前で、手で刀を抜いて振りかぶって、袈裟(けさ)懸けに切る形をして見せたところ、彼女は血の気を失って倒れそうになった。私は文学よりも日本刀のほうがいかに西洋人を畏服させるかを知った。

われわれにとって、「サムライ」は父祖の姿であるが、西洋人にとっては、いわゆる野蛮人のイメージでもあろう。われわれはもっと野蛮人であることを誇りにすべきである。

ユングという心理学者によると、アメリカ人の心を占める英雄類型は、アメリカ人自身の中には求められず、彼らがかつて戦ったインディアンの中にしかないのだそうである。



三島由起夫「若きサムライのために」より






レディーファースト


私たち夫婦は協定を結んでいる。日本料理屋に入るときは私が先、西洋風のダイニングに入るときは、女房が先である。

というのも、礼法そのものは一つのゲームと思えばなんでもないのである。そしてそのゲームにいろいろ自尊心の問題が絡んでくるからやっかいなのだ。

女が先に立って歩き、あるいは女が先に車に載せられると、いかにも女が尊敬されているように見えるが、誰一人として、実はそれは尊敬ではなくて、弱者として保護されているのだということに気がついて憤慨したものがいないのは不思議である。

西洋の男は子供の頃からしつけられているので、女と一緒に歩くと、自然にオートマチックに女を建物側にかばい、自分を道路側にして歩くという習慣をつけているので、殆ど意識の努力を要しない。

この習慣は19世紀ビクトリア時代に固定したものである。道の中央に馬の糞がころがり、馬車は泥を蹴立てて進んできた。もし男がかばってやらないことには、女は馬糞を踏んずけるかも知れず、また裾長のドレスに泥をひっかけられるかもしれなかった。



三島由起夫「若きサムライのために」より






武士道



革命っていうものは、「今日」より」明日」を優先させる考えだ。オレは、未来とか明日とかいう考えはみんな嫌いなんだ。高見順が一生フラフラしちゃったのはなぜか。それは、未来を信じたからだよ。

小説家にとっては今日書く一行が、テメエの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、どうして書く一行に力がこもるかね。

その一行に、自分の中の集合的無意識に連綿と続いてきた「文化」が身体を通じてあらわれ、定着する。その一行に自分が「成就」する。それが「創造」というものの本当の意味だよ。未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。

三島のいうことは、未来がない、なんていわれる。馬鹿いえ。未来はオレに関係なくつくられてゆくさ。オレは未来のために生きているんじゃねぇ、オレのために生き、オレの誇りのために生きている。


三島由起夫「若きサムライのために」より


「武士道とは死ぬことと見つけたり」。

武士の心得を説いた『葉隠』にあるこの言葉はよく誤解されてきた。それは単純に死を求め死を美化しているものではなく、死ぬ覚悟をもって主君によく仕え職務を全うしてよく生きることを求めている。

人間誰でも、今日の夜に死ぬとわかってれば、嫌でも残された時間を誠実に真摯に生きようとする。 武士は毎日をそういう心構えで生きなくてはならない。







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