ログ以前 2003 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 


トムクルーズ

ミケコの言い分 「ネコだからって、みんながみんにゃ、気まぐれじゃにゃーいのですニャ」
無菌病室の人びと 「きれいで、良い性格で、食が細い女性」というのが、白血病になる要素かもしれない
言葉の大切さ 「赤ん坊に声をかけないで育てたら、何語を話すか?」
小津安二郎 これぐらいの品のいい映画を作る人がいないのよ
世界の中心で、愛を叫ぶ 朝、目覚めると泣いていた。いつものことだ。悲しいのかさえ、もうわからない。
学生街の殺人 「なんでもかんでも知ろうとしないことよ。そういう暴力もあるんだから・・・」
ロッケンローール!! トムクルーズはちょっとしたことでたじろぐ。でもいよいよ本番の時間が近づいてくると・・・
男と女・結婚について 女の人は好きな人が縦に並んでいる。男の人は横に並んでいる。
乙武くんVS2h 匿名板「2ちゃんねる」において、僕は、これまでも何百回となく殺されている。
黒澤明の用心棒解説 二股かけてうまくいった男の話だけど、その二股かけられた方は、・・・
乙武くんの8マイル評 「清く正しい元気なオト君」像。僕の虚像と、現実の自分とのギャップに悩みました。
心理テスト 足元を見ると、手鏡が落ちていました。そこになにが映っていますか?
さよならブラックバード 僕はいまから八年程前に長女を亡くしました。彼女は重い障害をもった子供で・・・
ダンボ ダンボは、サーカスにいる赤ん坊のゾウ。耳がやけに大きいゾウでした。
■マトリックス着想の由来 現在の日本人は大抵が、初めてセックスするまえにアダルトビデオを見る。そして・・・
−なぜクンフーか(matrix) ダルマ大師が開いた少林寺では、拳法を修行とし、それを発展させた。清王朝は、少林寺は反政府分子とみなし・・・
−キルケゴール(matrix) 「マトリックス」の世界の中でネオは絶えず二者択一を迫られる。
−「matrix」は反体制映画 「マトリックスとは体制だ」モーフィアスは宣言する。「体制こそが我々の敵だ」と。この体制とはズバリ、・・・
少しむかつくV6の歌 Darling! Darling! いい、じゃない♪
手塚治虫の『幸福論』 「悪いことってなんです?悪ってなんです?誰がそんなこときめたんです?神様ですか?
デッドゾーン ベッドインすることが愛の証であるならば、それは幸せなケースです。でもそれが・・・
美しい女性の仕草とは? 女性らしく見せるには四肢を交差させるとよい。



3



美しい女性の仕草とは?



女性らしくするということと男に媚びるとは意味が違う。一般的に女性らしさは優しさや穏やかさなど温和な印象を相手に与えるため、より良い人間性をアピールする上で有用である。
 
社会学者の上野千鶴子氏によると、女性らしく見せるには四肢を交差させるとよいらしい。つまり、左側にあるものを右手で取り、右側にあるものを左手でとるようにするのだ。ペンでも箸でもとにかく四肢を交差させるように使うとよい。頭の髪の毛に触れるときも右側の髪をわざわざ手を回して左手で触れるようにすればよいのだ。
 
もともと「女」と言う字体は手足を交差した姿勢を表す象形文字からきているという。だから男でも手足を交差させれば、体が曲がりしなやかな形状となり女性らしく見えてしまう。
 
もし、あなたが上司から目の前にある用紙を取ってくれと頼まれたなら、さりげなくその用紙から遠いほうの手で取ってあげれば自然に体が曲がることになり、女らしさのアピールをすることができるのである。






3



デッドゾーン



スティーブンキング原作・デビッドクローネンバーグ監督の傑作映画「デッドゾーン」の中での一場面。

ある夜、家まで送ってくれた彼に彼女は言います。「寄っていく?」彼は首を振ります。「待つほどいいからね・・・」二人は婚約しており、いつでも関係を持とうとすればもてる間柄です。

しかし、初めてのベッドをともにすることなく、彼女を送った帰り道で彼は交通事故にあってしまいます。意識不明のまま、ベッドによこたわる彼にとりすがり彼女は叫びます。が、彼は目を覚ましません。

やがて彼は目を覚まします。彼は自分がベッドにいることに気づき、そしてもう一つ奇妙なことに気づきます。交通事故に遭ったのに包帯一つ巻かれていないことに。彼はどうして包帯がないのかと、そばにいた両親に尋ねます。

「おまえは眠っていたんだ」
「え、どれくらい?」
「5年間」

5年間で変わったことといえば、彼女が人妻になっていたことでした。退院した彼は、偶然彼女と再会します。しかし、なにもドラマは起こりません。

ところがある日、彼女は自分の赤ん坊を連れて彼の家に訪ねてきます。驚く彼に、二人きりになったとき、彼女は言います。

「待つほどいい、って言ったわね。長く待ちすぎたんじゃないの」と言って彼女はゆっくりと自分の服のボタンを外しはじめます。
そしてすべてが終わったあと、二人は本当のさよならをしたのです。


ベッドインすることが愛の証であるならば、それは幸せなケースです。でもそれが別れの証になることだってあるのです。



鴻上尚史「恋愛王」より




3


■悪の肯定論

「悪いことってなんです?悪ってなんです?誰がそんなこときめたんです?神様ですか?それとも地球が出来たときから決められていましたか?」

「それは人間の良心が決めるんだ」

「ほら、ごらんなさい!人間が自分で勝手に決めたんでしょう!

たとえば、、誰かが犬をいじめたとする。すると、そんなに犬をいじめてはいけない、とすぐに怒られるでしょう?だけど牛やブタはどうです?人間は平気で殺すじゃありませんか?

戦争だってそうです。両方とも正義の戦いだっていってますよ。こっちは敵が悪い奴で、味方は正義だと思っているけれど、敵は敵で自分の方が正しいと思いこんでいる。そして結局は人殺しを平気でするじゃありませんか!

正しいこと、悪いことなんて、人間が勝手にでっち上げたもんで、そんなもん実際にはないんだ。生きるためには、誰がどんなことをしてもいいんですよ!」


手塚治虫『バンパイア』から


■幸福論

「なぜ、おまえだけが死なないで、俺たち人間は死んでいくんだ。どうして、こう不公平なんだ」

「不公平ですって?あなたがたは何が望みなの?死なない力?それとも生きている幸福が欲しいの?」

「俺にはわかんねぇ。でもおまえさんぐらい死ななきゃ、幸福だろうよ!」

「あなたの足元をみてごらんなさい。虫がいるわね。それも生きているわ。たった半年しか生きていないのよ。カゲロウはもっと短いわ。親になってもたった3日の命よ。それでも不平はいいませんよ」

「虫けらになにが分かるもんか!」

「虫たちは、自然の決めた間、ちゃんと育ち、食べ、恋をし、卵を産んで満足して死んでいくのよ。人間は虫よりも魚よりも犬やネコよりも長生きだわ。その一生の間に生きている喜びを見つけられれば、それが幸福じゃないの?」


手塚治虫『火の鳥・黎明編』から


■人間はなぜこの世にあるのか

「おまえが不幸なら、焼き殺された女奴隷たちは、もっと不幸じゃないか?ずっとたどってみるがいい。みんな不幸なのだ。この世に幸福な人間などありはしない!」

「みんな不幸・・・。なら、なんで人間はこの世にあるのだ?」

「木や草や、山や川がそこにあるように、人間もこの自然のなかにあるからには、ちゃんと意味があって生きているのだ。あらゆるものと繋がりをもって、その繋がりの中でおまえは大事な役目をしているのだよ」

「この俺がか?この俺に役目があるって?この役にもたたん俺が?」

「そうだ、もしおまえがこの世にいないならば、何かが狂ってしまう」

「あんたは不思議なことを言う・・・。俺はそんなこと、思ってもみなかった。じゃぁ俺は、これからどうやって生きていけばいい?」

「その川を見なさい。川は偉大だ。自然の流れのままにまかせて、何万年もずっと流れている。流れを早めようという欲もなければ、流れを変える力も出さない。すべて自然のままなのだ。しかも大きく美しい。そして・・・・よろこばれ、恵みを与えている。おまえも巨大だ。おまえの生き方次第で川のように偉大にもなれるだろうよ」


手塚治虫『ブッダ』から


■命はなんのために

「いつもわたしは言っているね。この世のあらゆる生き物はみんな、深い絆で結ばれているんのだと。

人間だけではなく、犬も馬も牛も、トラも魚も鳥も、そして虫も。それから草も木も。命の源は繋がっているのだ。みんな兄弟で平等だ。おぼえておきなさい。

そして、みんな苦しみや悩みを抱えて生きている。もしあなたがたの親や兄弟の中にも餓えで苦しんでいたり、不幸が起こったりしたらどうなる?

あなたの家はつぶれ、あなた自身にも不幸がくるでしょう。自分の不幸を、自分の苦しみを治すことだけを考えるのは心が狭いことだ。自分以外のみんなのことも考えてみなさい。

だれでもいい。人間でもほかのものでもいい。相手を助けなさい。苦しんでいれば、救ってやり、困っていれば力を貸してやりなさい。なぜなら、人間も獣も、虫も草木も、大自然という家の中の親兄弟だからです」


手塚治虫『ブッダ』から





3



すこしムカツクV6の歌

Darling! Darling! いい Just night
割り切れない shot に good ときてる
Darling! Darling! What 感 eye
イタいぐらい Fit する mind


昨夜君がねだったのはアロマオイルみたいな嘘
朝が来ればコロンで消して何処へ行くの?
別に次の約束を してもしなくても支障ない
充電しなきゃ動けない瞬間には傍にいるさ

あてにならない感情naviにしてdrive
今日も明日もどうせ明後日も
先は読めない

Darling! Darling! いい Just night
割り切れない shot に good ときてる
Darling! Darling! What 感 eye
イタいぐらい Fit する mind

Darling! Darling! night and day
手探りの行為じゃ pin とこない
Darling! Darling! More 終わんない
ウラハラに Hit してたい


同じ場所に何となく 帰りたくない事情よりも
足が向いた「現実」はずっと大事なのさ

たどり着かない感情抜きにして stay
晴れか?雨か?嵐を呼ぶのも
半分君しだい

Darling! Darling! いい Just night
割り切れない shot に good ときてる
Darling! Darling! What 感 eye
イタいぐらい Fit する mind

Darling! Darling! どう? You know
目を閉じて見なきゃ 見えてこない
Darling! Darling! 意図、OK!
アイマイに Hot としてたい





解説 

だって、日本語英語で駄洒落ってるんですよ〜


Darling! Darling!  いい Just night
→Darling! Darling! いい、じゃない♪

Darling! Darling! What 感 eye
→Darling! Darling! わかんない♪

Darling! Darling! night and day
→Darling! Darling! 悩んで♪

Darling! Darling! More 終わんない
→Darling! Darling! もう、終わんない♪


あげくのはてに


Darling! Darling! どう? You know
→Darling! Darling! どうゆーの♪

Darling! Darling! 意図、OK!
→Darling! Darling! It's OK!!



とかいっているんですよ。

歌を聴いているだけなら気がつかないけど
歌詞を見た日ににゃどうにも許せません。

先生!! どうしたらいいですカ(笑)






3



Q:社会には、人と人との違い、いわゆる区別がありますが、おすぎさんにとってのお考えをお聞かせ下さい。

A:人と人の区別っていうのは、あっていいと思うの。それを、どういうふうに受け取るかの心の問題なのね。

男の人がいて、女の人がいて当然じゃない。男の人にできないものを女の人がもってたり、女の人にできないことを男の人ができたりするのは当たり前のことでしょ。ただしお互いを認め合えばいいわけよ。

体が不自由な人も、誰だって年をとれば耳が遠くなったり、目がかすんできたり、手足が不自由になったりするわけだから、障害をもっているということも特別に思わないで、手を借してくださいっていったら借してあげればいいのよ。

自分からどうですか?なんていう押し付けがましい手助けじゃなくって、心の構え方が大切よね。相手を思いやることがとっても大事なことなんだと思うの。そういうことを教えるのが教育なのに、今の日本の教育じゃあだめだし、親もだめね。根本的にまちがっているのよね。








3

マトリックス


1.「マトリックス」着想の由来

ハッカー・ネオは、自ら作った違法ソフトを、くり抜いた本の中に隠していた。その本は、フランスの学者ジャン・ボードリヤールの著書「シュミラークとシュミレーション」。

この本にこんな一説がある。“マトリックスは、社会のあらゆる分野に蔓延しつつある。それは抑圧のモデルである”

監督・脚本のウォシャウスキー兄弟はこう語っている。
「この本の中で“マトリックス”という言葉を見つけたとき、もやもやとしたアイディアに突然、形が与えられたんだ」


ボードリヤールによると、「シュミラーク」とは“オリジナルなき複製”であり、シュミレーションとは“その行為”である。

たとえば「神の像」がそうだ。木に彫られた十字架は、想像による神の複製のようなものである。しかし今やそれ自体が信仰と畏敬の対象になっている。


現在の日本人は大抵が、初めてセックスするまえにアダルトビデオを見る。そして実際するときの手本にする。しかし、現実にはAVは本物のセックスではない。映っている男女は実際に性交をしていても、結局は演技、シュミレーションである。

ところが、本来は「真似事」であるはずのAVを実生活のセックスにおいて再現しようとする。現実と偽者の逆転である。しかもビデオのように激しくよがらないと不完全さを感じる。演出されたAVのほうが、より完全なセックスに見える。現実のセックスでは満たされなくなるのだ。

このような現実よりもリアルなシュミレーションが、現実社会のあらゆる分野に浸透しているとボードリヤールは言う。


ウォシャオスキー兄弟は学校教育に怒りをあらわにする。

学校教育は実社会のシュミレーションのはずだった。それがいつしか逆に人間を型にはめようとする。けれど、その型にはまった人間だけが、高学歴を得て、大企業や役所に入って社会に君臨するのだ。

「そんなもので人間の価値が決まるなんて・・・この世はおかしいよ。よほど鈍いやつでなきゃ誰でも思春期にはそう思うはずだ。でもいつまにか順応してルールを受け入れてしまうんだ」



3

2.なぜクンフーなのか

モーフィアスはネオに言う。

「現実とはなんだ?現実をどう定義する?たとえ触覚、視覚、聴覚、嗅覚で現実を感じても、それは君の脳に届いた電気的信号にすぎない」

まさに16世紀フランスの物理学者デカルトのいう“我思う、故我あり”である。


ウォシャウスキー監督は、19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウエルの思想が、この映画に反映されているという。

ショーペンハウエルは、“この世界は我々自身の知覚器官が生み出した表層の存在にすぎない”と説いている。

実はショーペンハウエルの思想は、仏教やインド哲学からヒントを得ている。

仏教は、目で見て感じられる現象は、すべて存在しない「空」であるとしている。そして本当の現実、「実相」は目に見えない真実として隠されているという。中国の道教の思想もまた似たような思想である。

道教の思想は、この世には確固たる実態はなく、すべてはうつろい行く「気」の現われに過ぎない、としている。そしてその「気」の動きの法則、道(タオ)だけが唯一宇宙に存在する真実なのだが、タオには形がなくそれは常に変化しているのだ、という。

その中国の道教とインドから発生した仏教が合体して発展したのが、「禅宗」である。そして、中国最初の禅寺こそが、少林寺なのである。

ラリーウォシャウスキーは語る。

「クンフーを選んだのは、それを支える道教や禅の思想に同意するからだ。特に最新物理学との共通性について書かれた「タオ自然学」などを読んで魅了された」


西暦574年、インドから渡来したダルマ大師が開いた少林寺では、拳法を修行の一貫として採用し、それを発展させた。

しかし1735年、満州族が漢民族の国、明を滅ぼし清王朝を打ち立てると、少林寺は反政府分子とみなされ、焼き討ちされた。

拳法家は散り散りとなり、密かに反清王朝(漢民族復活運動)のために闘いつづけた。香港のクンフー映画の多くは、彼らを題材としている。

マトリックス世界へのレジスタンスの武器として、クンフーほど相応しいものはない。



3

3.キルケゴール

「マトリックス」の世界の中でネオは絶えず二者択一を迫られる。 

上司からは、「会社の一部になるか辞めるか」、モーフィアスからは「青い薬か赤い薬か」、預言者から「キャンディを食べるのか食べないのか」、アーキテキトからは「右のドアか左のドアか」etc・・・

ウォシャウスキーによれば、この選択はデンマークの哲学者キルケゴールの著書「あれか−これか」に由来する。
 

神学者として世界を探求していたキルケゴールは、ある日突然、婚約者を捨て、孤独な哲学者の道を選んだ。

キルケゴールは、誰でも人は感性で生きる「美的世界(快楽の世界)」と理性で生きる「倫理的世界(真理の世界)」の間にいるのだという。

その中で、「あれも、これも」ではなく、「あれか、これか」を主体的に判断し選択しなければならない。

ローマ皇帝ネロは、自己の快楽のためにローマを焼き払い、母親の前で幼児を切り裂き、あらゆる権力をむさぼった。しかし残された結果は倦怠と憂愁であった。知識・名声・友情・財産・快感・すべては無に過ぎず、追求すればするほど絶望にたどり着くのだ。

その「美的世界」が物理的な快楽など自己の外への追求であるのに対し、「倫理的世界」ではただひたすら自己の内面に向かい、自己自身を選択していく。しかしまたそれを追求していくと、孤独と不安しか残されない。「倫理的世界」においても、結局は絶望にしかたどり着かないのだ。


人間の現実は、すべては絶望である。絶望は「死に至る病」である。そして絶望は罪である。とキルケゴールはいう。

それでは罪とはなにか?有限性の中に捕らえられ、永遠と深遠をもってへだてられた存在であることだ。それは人間が神から離れることだ。

聖パウロが記している。
「この死のからだから救ってくれるものは誰か?私たちの主、イエスキリストによって、神は感謝すべきかな!」これがそのままキルケゴールの答えである。


「マトリックス」のザイオンに集結した人類は、「倫理的世界」を選択し壮絶な戦いを試みるが、結局は絶望が残されることになる。それを救うのは、救世主であるネオなのか−。


3

4.「マトリックス」は反米・反体制映画である

「マトリックスとは体制(システム)だ」

モーフィアスはっきり宣言する。「体制こそが我々の敵だ」と。この体制とはズバリ現在の世界を支配する体制、アメリカのことである。

マトリックスの「エージェント」たちは、明らかにFBIである。ダークスーツはFBIのトレードマークであり、ハッキングの取り締まりも主にFBIの管轄である。

考えすぎではない。エンディングに流れる歌詞は、アメリカ政府にたいして革命戦争を宣言するのである。



1966に怒りを抱いて
俺はまだ体制に膝まで浸かっている
フーヴァーFBI長官は始末屋だった

社会変革運動は滅んでしまった
パンクな連中は皆殺された

人民を鎮圧する警察・裁判所・
連邦政府のネットワーク

奴らがキング牧師を殺した
キングはベトナム戦争を批判したから
奴らがマルコムXを殺した

イスラムに罪をきせて
彼らが持たざるものに
力を与えようとしたのだ




都会の雑踏を歩きながらモーフィアスはネオに言う。

「サラリーマン、警察、教師、弁護士、大工、我々は彼らを救おうとしてるが、大抵の人はまだプラグを抜く段階ではない。みんな体制に依存するしかないから、必死にそれを守ろうとする」

そして駐車違反を取り締まる警官がこちらを向いた時、モーフィアスは宣言する。
「彼らが体制の一部である以上、みんな我々の敵だ」
そしてネオたちは警官たちは容赦なく皆殺しにする。


*********


欧米や日本のシュミレーション社会は、実は「汗と泥にまみれた労働」「貧困」「暴力」という現実から成り立っている。

カフェでカプチーノを嗜むマダムは、そのコーヒー豆が貧しい国の幼い少女の血まみれの手で摘まれた事実を知らない。

マトリックスで人間に与えられる栄養は死体を溶かした液体である。グローバリゼーションもまた、貧しい国の奴隷たちの屍で先進国の無菌室の貴族達を培養している。それはマトリックスそのものだ。

マトリックスは実在する。

我々は何をすべきか。奴隷として生きながら、映画やゲームやアイドルやアニメやネットやマネーゲームや企業での出世に慰めを見出すか、それともシュミレーションの檻から飛び出して、現実の砂漠に歩み出して誰の真似でもない人生を生きるか、青いカプセルか赤いカプセルか。

人生は、一度きりだ。




映画秘宝 2003年N043 
マトリックス砂漠の世界へようこそ(町山智弘)
から抜粋加筆






3






きみは飛べる。

自分で飛べるんだ。


耳をひらいて、

それぇ!

耳をひろげろ!






ダンボは、サーカスにいる赤ん坊のゾウ。

耳がヤケに大きい子ゾウでありました。そのおかげで、皆に笑いモノにされるわ、仲間のゾウにはイジメられるわ、かなり悲惨な状況に陥っていました。あげくのはてには、ゾウなのにピエロをやらされるという始末・・・。

それを救ったのが、ネズミのティモシー。

ある日耳をバタバタさせていたダンボは、空を飛べることを発見。カラスたちの協力も得て、ついにその大きな耳を使って自ら飛べるようになりました。

そしてダンボは、一躍、大スターとなるのでした。






3



さよならブラックバード



僕はいまから八年程前に長女を亡くしました。

彼女は生まれたときから重い障害をもった子供で、十八年間の人生の中で一度も自分の力でベッドから起き上がることが出来ない生活を送り、そして死にました。

生まれてすぐからミルクが巧く飲めず、いつまでたっても首が据わらないままで、やがて視力が、そして聴力が失われ、身体の発育も健常児に較べればずっと悪く、四肢の関節は曲がり、自分の手で食事を摂ることも出来ないままで生涯を終えました。

最後の七年間は親戚の経営する病院に入院し、僕自身は仕事が忙しかったせいもあって、月に三、四度病院に見舞いに行くのが精一杯、という状態で良い父親とはいえなかったかもしれません。

それでも見舞いにいったときに天気がいいと、僕は娘を抱いて窓際に連れて行き、太陽の光を浴びさせてやることにしていました。

すると、視力のないはずの彼女が、光を感じ取ってさも嬉しそうにニッコリと笑うのです。目は見えなくとも光を感じ取る事はできるのです。

それは父親である私にとっても至福の時間でした。





さて、ここからはちょっと不思議な話になります。

急な死だったために、僕があわてて病院に駆けつけたのは死後一時間ほどしてからでした。娘は既に冷たくなっていて、一八歳にしてはずいぶん小さな体をベッドに横たえていました。

その夜、通夜が営まれ、お棺に入れられて祭壇に安置されている娘の遺体を目にしたとき、僕はなぜか「あ、もう肉体から魂が抜け出してしまっている」と感じたのです。

ふと祭壇の上の方を見ると、そこに娘がポコンと浮かんでいました。それは、生前の肉体の姿ではなく、白く光る玉のように僕の目には見えました。


無事にお通夜を終え、僕は翌日の葬儀に備える為に教会の駐車場にあった車に戻りました。車のエンジンをかけたときに、僕は助手席に死んだ娘がいる事に気がつきました。さっきと同じ光る球体のようでした。「一緒にお家に帰るか」と僕は娘に声をかけました。彼女は、「うん、一緒に帰る」と答えました。

不思議なことです。

生きているときは、言葉が喋れないために一度も会話をしたことがない彼女と、死んだ後ではまるで普通の人と同様に会話ができるのです。

といっても、それは鼓膜から通して伝わってくるものではなく、直接僕の心に語りかけてくるテレパシーのような通信手段でしたが、それでも意思は完全に通じあっていました。




いろいろなことを語り合いながら、車を運転していくと、途中で雨が降り始めました。家に着いたときもまだ雨は降り続いており、彼女は「そうかぁ、雨ってこういうものなんだ」と感激していました。ずっと室内で暮らしていた彼女は、雨というものを実体験したことがなかったのです。

その後、娘は(ヘンな話ですが)自分の葬儀にも出席し、しばらく我が家に滞在していました。

その間に「お前はなんであんな不自由な身体を選んで生まれてきたのだ」と尋ねたことがあります。娘の答えはこうでした。

「他の理由はあるけど、私が生まれる前のパパの心の状態のままだと、パパは弱者に対してのやさしさが持てない人になっていたかもしれないの。それで私は重い障害をもってパパの娘に生まれたの」

この言葉は僕にとって目からウロコが落ちるようなものでした。

たしかに、思い返してみれば当時の僕にはそういった傾向があったのかもしれません。やがて娘は、「もう天に帰るから」と言って去っていきました。

痛く、辛く、悲しい人生ではあったと思いますが、彼女の一生は無駄でも敗北でもありませんでした。障害をもつ子として生まれて、僕に思いやりの大切さを気づかせてくれたのですから。

これはすべて本当の話です。

もう一度言いましょう。どんな人生でも無駄や敗北はないのです。大切なのは無駄や敗北とみえたことから、何を学び取るか、なのです。


景山民夫「さよならブラックバード」あとがきから <<1998年3月>> 




3



心理テスト



 
 どこまでもどこまでも続く線路を想像してください。

 あなたは、今その線路の上を歩いています。
 ふと足元を見ると、手鏡が落ちていました。

 あなたは、手鏡を拾います。
 その手鏡を覗くと、あなたとは違う人物が映っていました。

 その人は、どんな人ですか?








その人とは、あなたの人生における敵をあらわしているそーです(うふ)






3





「汚いもの、まかり通ってほしくないものも混在しているのが、社会なんだ」

僕はこの作品みたいにリアルな映画が好きだ。タイトルの『8mile』はデトロイトに実在する通りの名前で、映画の中では人種や階級の境界、人生の障害を象徴しています。考えてみれば、僕の人生も、<8マイル(障害)>だらけです。ただ、それを意識せず、その向こうだけを見て生きてきた。いや、最初から向こう側にいるつもりだった。

ところが『五体不満足』を書いた後、僕の前にも直視せざるを得ない<8マイル>が現われたのです。本から生まれた「清く正しい元気なオト君」像。世間が見る僕の虚像と、現実の自分とのギャップに悩みました。この<8マイル>を超える決意をしたのは、ほんの数ヶ月前です。取材した海外のスター選手たちが、僕と同じギャップを抱えながらも、皆の期待に誠実に応えようとしている姿を見てー。

今回主役のエミネムも、いつものスキャンダラスなミュージシャン像を脱ぎ捨て、一人の映画俳優に徹していましたよね。夢や目標があるのに現実に縛られて動き出せないでいる人、逆にやりたいこと自体見つからないでいる人は是非見てください。

冒頭で主人公の焦りや苛立ちに共感し、クライマックスのラップバトルで思わず一緒に興奮する。そしてラストでは、現実にへ一歩踏み出す勇気、きっともらえますよ。


乙武洋匡 8マイル・広告・朝日新聞より





3



『ぼくは長いこと心底からおもしろいものを作ろうと思っていた。これはそういう想いを具現化したものなんだ。

この話は確かにおもしろい事この上なしなのだが、それだけに今まで誰もこんなアイデアを思いついたことがなかったというのは驚きだったね。

要するに二股かけてうまくいった男の話だけど、その二股かけられた方は、両方とも悪い奴だってことがミソさ。

何の話か分かるだろう?

ぼくらは弱い存在だから、両悪の真ん中に挟まれっぱなしで、どっちかを選ぶなんてできない相談なのさ。

昔からいつもぼくは思っていた。悪対悪というばかげた戦争は、なんとかしてやめさせなきゃならないって。実際にぼくらは奴らより弱くて話にならんし、戦争はずーと起こり続けて、うまくいくことなんかなかった。

そこが、ぼくらとこの映画の主人公の違うところだ。

この男なら正々堂々とど真ん中にたって、戦争をやめさせることができるんだ。ぼくが最初に考えついたのはこいつのことで、それがこの映画のそもそもの始まりなんだ』


黒澤明本人の「用心棒」解説





3



乙武くんの日記転載



ある日、ホームページにこんなメールが届いた。

 【掲示板最大の2ちゃんねるで、名誉毀損されています。犯人を突き止めて、名誉毀損で訴えてください】
 そこに記されていたアドレスをクリックすると、ニュース仕立ての「書き込み」がなされていた。

 「東北地方に起こった大地震により、タレントの乙武さん(27)の家に火災が発生した。
 26日午後9時20分、乙武さんの家は全焼し、丸焦げになった乙武さんの遺体が発見された。調べによると、妻の仁美さんはすでに脱出しており、なぜか逃げ遅れた乙武さんは自力でドアを開けられず、車椅子ごと火だるまになって発見された模様」

 誰もが自由に書き込みできる匿名掲示板「2ちゃんねる」において、僕は不思議と愛されているようで、これまでも何百回となく殺されている。だから、今回だって特に驚きはしない。いつものことだから。
 そりゃ、ヘコむ。いい気持ちはしない。その書き込みを見た友だちは、気遣いの言葉をかけてくれる。

 「そんなの気にするなよ」
 「無視するに限るよ」

 彼らの忠告はありがたいけれど、僕はあえて気にするようにしている。せっかくボロクソに書いてもらっているのに、無視するのはもったいないから。

 読者やファンの人から送られてくるメールや手紙は、そのほとんどが僕を誉めそやすものだ。街を歩けば、「いつも観てますよ」「勇気をもらってます」。若い女の子にキャーと言われれば、やっぱり悪い気はしない。仕事先にはスタッフがいて、いつも気を遣ってもらっている。暑くないか。寒くはないか。のどが渇いてはいないか。黙っていても、快適な環境が自然と用意される。

 若くして世に出てしまった僕に強く物が言える人がいないのは、僕にとって大きな不幸だと思っている。僕はそう強い人間ではないから、時折、このまま傲慢な人間になってしまわないだろうかと不安になることがある。そんなとき、僕はパソコンを開き、「お気に入り」のフォルダから「2ちゃんねる」を選び出す。僕を悪く言う人々の書き込みを読む。薬みたいなものかもしれない。それまで持っていた自信や自尊心といったものが一気に崩れ去り、代わりに謙虚な心が入り込む。泣きたくなることもある。でも、それくらいがちょうどいいと思っている。

 彼らの文言は、あまりに心なく、的外れなものが多い。けれども、時に足元を見つめさせてくれるものもある。「あんな文才のないやつが」と書かれれば文章を磨くことに貪欲になれるし、「障害があること以外に何のウリもない」と指摘されればウリを作ろうと必死になれる。

 匿名だからこそ好き勝手に書けるけれど、匿名だからこそ本心が出る。僕をよく思っていない人たちの存在を知り、意見を聞くことで、見たくない自分の姿が見えてくる。そこから目をそらすことの方がよっぽど簡単でラクなことだとはわかっているけれど……。

 名誉毀損をちらつかせながら彼らを黙らせることは、確かにできるのかもしれない。でも、それでは単に彼らの口を閉ざしたに過ぎない。誹謗中傷する人々の気持ちを少しでも変えるよう努力する。それは、僕にとって意味のないことではない。




3



『以前男友達と話していて、男と女では好きな人の並び方が違う、という話題になったことがあります。

女の人は好きな人が縦に並んでいる。

「一番好きな人」がトップにいて、その人と別れて新しい彼ができると、トップが入れ替わる。好きな人に1番、2番、3番のように順列がつけられているんです。そして別れた人は、消えていきます。

 男の人は好きな人が横に並んでいる。

「一番」がなくて、そこそこ好きな人が横一列に並んでいて、ちょうど正面にいる相手とつきあっている。だからいつでも適当につまみ食いできる。そして別れても、なかなか消えていかない。という話になりました。

私の数少ない経験の中では、男のほうが恋愛に対しては優柔不断なことが多く、総じて女の方が潔い、という印象があったので、なんとなく納得してしまいました』


−−−
 


『女にとって男は音楽。
不協和音になるので、複数の音楽を同時に楽しめない。

男にとって女は絵画。
複数の絵画を、一つの部屋に並べて楽しむことができる。


確か、こんな感じだったかな?

なるほど〜と思った覚えがあります。

女はどれだけ好きだったとしても、他に好きな人ができれば その人を、あっさり圏外においやっちゃいますよね』


 

−−−
 


『結婚7年目のわたしですが 、最近思うこと。

特定のパートナーを持つということは、「この人を愛する」という努力であり覚悟なんだな〜、ということです。

以前では、「愛情」というものは勝手に心の中に湧き出てくるもの、みたいなイメージを持ってましたが、今ではそうではなく行動そのものが愛情なのね、と思うようになりました。

その昔、親が決めた結婚相手と結婚式当日に初めて顔を合わせる  ・・・なんて話はよくありました。そういうのを聞くと、ちょっと前までの私は、「なんて横暴な話!信じられない」と思ってました。でも最近は、それもアリな気がするのです。

結婚する理由が、親の為だったり、何か他の打算からであっても、当人が納得して、覚悟を決めてすることならば、それでいいのではないかと思います』




(某掲示板より)




3

ロッケンローール!!



FE:いま出版界のなかで、見城徹ほどパワフルで敵なしの男はいないと言わ
れていますが…。

見城「僕は、人一倍不安や恐怖を感じるタイプなんですよ。しょっちゅう後ろ髪を引かれているし、小石にもつまづく。何をやるにもウジウジ悩んだりクヨクヨする男なんです。

7、8年前にトム・クルーズの仕事や私生活に密着して書かれた記事を雑誌で読んだことがあるんだけど、彼はいつもちょっとしたことでたじろぐんだそうです。例えば明日ベッドシーンがある。ものすごく憂欝で落ち込む。ロケ現場でもずっと無口で。でもいよいよ本番の時間が近づいてくると自分を吹っ切ったように、『ロッケンローーール!』と叫んで現場に入っていくんだって。

その気持ちがすごくよくわかるんだよね。以来、僕も一歩踏み出すときにはいつも心の中て『ロッケンローーール!』って叫んでますよ(笑)」


FE:でも、普段はそう見られないように工夫しているんじゃないですか?

見城「そんなことないよ。いつもミエミエに悩んで、最後は紙一重で前に行くというだけだから」

FE:幻冬舎という会社を作って以来、史上最速でミリオンセラーを6作も連発したり、3年目にいきなり12億円を叩いて62作の文庫本を送り出したり、郷ひろみの『ダディ』を常識外の初版50万部からスタートしたり……。どうして見城さんは毎回壁を突破できるんですか?

見城「そうしなければ何も始まらないと思うからじゃないかな。人は現状維持が一番楽なんですよ。でもそれでいたら満たされない自分がいる。寂しい自分がいるんですよ。だから、苦しくても、一歩前へ出る」

FE:それができる人は世の中に3%くらいしかいないんじゃないかと思いますよ。その他大勢はアクセルを踏めないまま、やがて死んでいく。でも見城さんは、彼らの琴線もわかるから出す本が売れるわけですよね。

見城「その二重性は持っていないとね…。密やかに生きて密やかに死んでいく、誠実に生きて誠実に死んでいく、無口に生きて無口に死んでいく…。そこには重い生の営みがある。そこをすごくよくわかっていながら、自分はポーンと一歩踏み出す。突破する。そうしなければ生きて行けない。

危険なものを見つけてそこへ行く。危険な道のランクがABCDとあれば、ウジウジ悩んだ末にAへ行く。それができない局面では、どこも突破しないでEを選ぶのかもしれない。AかEか。どちらにしてもミドルはない。その相矛盾する両方の振幅があって初めてマスを包摂できるんじゃないかと思いますよ」






FE:『大河の一滴』が文庫・単行本あわせて300万部を突破した理由は?

見城「人は必ず病気になるし、生まれたからには必ず老いる。肉親だろうと友人だろうと人は裏切る…。仕事は上手く行かない、恋は成就しない。それを前提として生き始めようじゃないかというのが『大河の一滴』の根本に流れているものなんです。

黙々と生きて黙々と死んでいった人たちはみな、それを静かに受け入れるんです。僕にとって尊敬すべき人たちというのは、そういう人たちなんですよ。人生の価値というのは、総理大臣だろうと田舎で黙々と生きた人だろうとみな同じだと思うんですよね。

最終的に人はひとりで死んでいく。それはすべての人間に対して平等じゃないですか。その時、笑って死ねるかどうか。それ以外は全部プロセスに過ぎない。自分の人生が成功か失敗か、死ぬ瞬間、自分自身が決めるわけです。その瞬間のために僕は今、戦っている」


FE:なぜそんなに寂しいんですか?

見城「だって人は必ず死ぬんだよ! もし死なないのなら、すべての問題は解決しちゃう。フラれたって全然寂しくないと思わない?1億年後には必ず恋は成就するだろう、一人くらいは(笑)。

時間の秘密というのはものすごく大きなことで、ものの哀れもせつなさも、感動はすべてそこから生まれてくる。時が経つことは誰も止められない。生病老死だよね。それを受け入れられるかどうかなんだけど、僕はダメなんですよ。生きている瞬間瞬間で自分を満たしてやらないと…。

哲学者や宗教家がいろんな生き甲斐を説くけれど、本当の生き甲斐なんてないんですよ。でもそれがないなんて言ってしまえばおしまいだから、一生懸命自分の中でその場その場の生き道を求める。宗教にきちんと入り込んで神と直結すれば、生涯寂しさを感じなくていいのかもしれないけど…」

FE:なぜ、そこにハマらないんですか?

見城「いろんな宗教を見たし、旧約聖書も新約聖書も全部読んだし、法華経も勉強したけど…そこに自分を埋められない。それよりもこれだと思った女を勝ち得てセックスするときのほうが埋められるんですよ(笑)。それも瞬間的だけどね(笑)。あなたは何が一番寂しさを埋められる?」

FE:足元にも及ばないですが、やはり仕事ですかね。

見城「仕事は大きな要素だね。でも、僕は仕事だけでも埋められないんだ」

FE:女ですか?

見城「自分を理解してくれる女は重要だね。男じゃダメなのよ。男が理解してくれてもどうしようもない。メディアの取材とかがドッと来るのも、一時は面白かったわけ。知らない人から『サインして下さい!』つて声掛けられたりしてね。虚栄心やナルシズムを満足させるところがあって、メディアに出ることによって寂しさを忘れられるようで楽しかったのね。

でも、今はそれもできるだけやめようと思って9割方断っているんです。結局、仕事も一瞬、一瞬のものでしかないんだよね。最近、ソニーマガジンズからコミック部門を引き取って幻冬舎コミックスという子会社を作ってさ。けっこう博打なんだけど、今はそれに気持ちが入っているんです。

それから、3年半かけて準備してきた『戦争論2』を50万部売って、半年で百方部まで伸ばしたいなという気持ちも強い。そういうことを絶えずやっていないと僕はダメなんですよ。ささやかに売れるだけじゃ、寂しさを埋め切ることができない…」

FE:若い頃からそんなに寂しいんですか?

見城「ずっと寂しい」


FE:周りに愛がなかったんですか?

見城「いや、そうじゃなくて、人間はつねに死に向かって生きているわけじゃない? 結局死ぬために生きている。それ以外は全てがごまかしですよ。何をやったって死という圧倒的な事実に向かっているわけで。

それを回避できるならいいよ。回避できないからすべては一時的なごまかしでしょ。だから根本的に寂しいわけです。愛があろうと仕事がうまくいこうと。だから僕にとっては、死をどのように受容するかが最大の問題なんです」






FE:「自殺」は見城さんにとってどういう位置付けになるんでしょうか?

見城「自殺できれば一番いいと思っている。でも今はまだ自分で自分の命を絶つことはできない。何度もそうしようと思うのね。ただその勇気がないだけなんだよ」

FE:見城さんが自殺すると、残された幻冬舎の方々が大変しゃないですか。

見城「そんなことは知ったこっちゃないよ(笑)。僕は僕のために会社をやっているわけで、彼らは彼らのためにこの会社にいるわけで、僕が死んだら誰かが何とかするかもしれないし、離れていくかもしれない。家族はいるとしても、それぞれの人生のなかで今ここを選び取っているだけでしょう。

だから僕は『辞める』というヤツは絶対に止めない。ものすごいエゴイストだから、この会社も見城徹という生き様の形だと思っているんです。僕の、のっぴきならない人生を生きるためにこういう会社になってしまったんです。

アンドレ・マルローの『王道』の中でテロリストの陳が死ぬ直前に放った台詞がカッコいいんだけどね…『死、死などない。俺だけが死んでいく』…まさにその通りで、俺だけが死んでいくんですよ。自分にとっては死でも、他の人にとっては死なんてないんです」


FE:なるほど。

見城「だから僕は、幻冬舎をやっていなかったら今ごろ飛行機の操縦席に座ってビルに突っ込んでいたかもしれない。

アラブ人の彼も、もしかしたら微笑みながら突っ込んだのかもしれない。それも彼自身の生き様なんだからいいじゃないかと思うよね。それは共同体の善悪や正義や真実なんていう、浮わついた言葉ではくくれないものでしょう。死ぬ理由が見つかれば僕は死にますよ。

ヘミングウェイが自分を撃った、三島由紀夫が腹を捌いた、奥平岡士が自分の足に爆弾を投げだというのは、だから僕にとって重いんです。60年安保のときに全学連が国会に突入して樺美智子という東大生が死んだ事件があったんだけど、その後彼女の日記が発見されて『人知れず微笑まん』という本になってね。

その本は、『最後に笑うものが一番良く笑うという。私も最後には人知れず微笑みたいものだ』という詩の1行で終わるんです。彼女は早過ぎる死の瞬間、笑えただけだろうかって考えるんです。

ホームレスでも大統領でもテロリストでも、みんな対等の人生を生きている。僕は最後に微笑んで死ぬためにダッシュしている。だから、すべての議論や人生論はどうでもいいことなんです」

FE:ただ、見城さんは少年の頃からずっと活字を愛していますよね。

見城「そうだね。いろいろ言ったけど、やっぱり活字をマスに売ることが、一番僕の寂しさを紛らわすことなのかもしれないね…」

FE:過去は引きずらない?

見城「引きずらないんだよねえ。自分を満たしてくれるものは、今、この瞬間にリスクがあるものじゃないとダメだから。

だから『薄氷は自分で薄くして踏め』という言葉にもなるし、『顰蹙は金を出してでも買え』『新しく出ていく者が無謀をやらなくて一体何が変わるだろうか』というコピーにも繋がるんです。

もし会社が倒産して一銭もなくなったとしても、また別の生き道を探すと思うよ。また違う僕らしい生き方になるはずだから…。表現者なのか宗教家なのか詐欺師なのかわからないけれど、僕は地べたからやると思いますよ。どうかろうと自分で死ねない限りは、すべて戦いですよ。生きて行くしかないんだから」






FE:見城さん自身、自分の好きなところと嫌いなところをひとつずつ挙げてください。

見城「好ぎなところ? そうね…臆病なところかな。細かいところまで考え詰めるから、不安に苛まれないまま夜を迎えることはあんまりないよね。

僕は臆病なんですよ。チキンハートだから無謀に行けるんです。いつもクヨクヨ者えているから、いろんなことを用意周到に埋めることもできるし、それがあるからターニングポイントで舵を逆に切ることができると思う」


FE:チキンハートの無謀者ですか。

見城「そうかもな。なんとも言えない快感があるんだよ。いっぱい最悪の状況を考え、不安を抱えるわけだから。その上で覚悟が決まる瞬間っていうのは気持ちがいい。悩みに悩んだ末で行っているから退却しないんです。もう行くしかない。行くと決めた瞬間にはスポーンと何かが抜ける。ゼロになってもいいって本当に思える」

FE:自分が嫌いなところは?

見城「やっぱり臆病なところですよ。好ぎなところと嫌いなところって、じつはコインの裏表だよね。僕は細かくて臆病なんです。ひとつもないがしろにできないんです。

たとえば23、4歳の社員がトイレ掃除のオバちゃんに『早く掃除終わらせてよ』と無愛想に言って、それを通りすがりに聞いたとする。そんなことすら、ないがしろにできない。そいつと1時間でも話し合っちゃうんです。『今のセリフはないだろう』って。でもそこでかかわったことに対してまた自己嫌悪に陥るんですよ。すると1日か2日は自分が使いものにならない。小さなことで落ち込んでしまう。

だから僕はパーティーには絶対に出ないと決めているんです。誰かに声をかけられたとき、他の人と話していて相手できないことってあるじゃないですか。その人に対して悪かったっていう思いをずっと引きずるんだよね。小さいこと、細かいことにいつも蹟いている。もう、やんなるくらいにね」

FE:今後、見城ワールドはどう進むんでしようね?

見城「ダッシュダッシュになっていくしかないと思う。もう肉体的にはチョーパン食らわせられない齢だけど、精神的なケンカはつづくでしょうね…。仕事と女しかありませんよ。あとはないもんね(笑)。

僕は生きていて何が嬉しいかと言うと、自分が仕掛けたものがマスに売れた後で『見城さんって素敵!』って好きな女が言ってくれる、それが一番いいんだよ! たった一人の女にそう言われたいためにやっているんです。それ以外は生きている寂しさを埋めようがない」


       

Webマガジン幻冬舎: オンリー・イエスタデーyori




3




学生街の殺人



「じゃぁ、なんで俺に相談しないで勝手なことするんだ。凄く大事なことなのに」

「大切?」

「命にかかわる問題じゃないか」

「分かりやすいけど、そういうセリフは誰にでも吐けるものなのね。
多分彼女は、あなたには解決できないと思ったんでしょう」

「彼女の問題でもあるが、俺の問題でもあるんだ。
はっきりとした理由を知りたいだけなんだ。納得したいんだよ」

「なんでもかんでも知ろうとしないことよ。そういう暴力もあるんだから・・・」



***



「いまは、何をしてるんだ?」

「自分では何かを探しているつもりだけど、自分でもまだわからない。
わざわざ何か俺にいいにきたのかい」

「いや、おまえがどう生きようが勝手だ。どう生きるべきなんて事は、ちょっと年を食っているからといって、話して聞かせられるものじゃない。自分でも満足にわかっとらんのだから」

「あんたでも、そうなのか」

「どんな人間でも一種類の人生しか経験できん。一種類しか知らんわけだ。それなのに他人の生き方をとやかくいうことは、傲慢というもんだ」

「道を間違ったらどうするんだい?」

「間違ったかどうかも、自分で決めること思うがな。間違いだと気づけば引き返せばいい。小さな過ちをいくつも繰り返しながら、一生というものは終わっていくものではないかな」

「中には大きなものもある」

「それは、ある。その場合でもその事実から目をそらしてはいかんだろう。償う気持ちを宝にして、その後のことにあたるべきだろうな。それでなくては生きていけん、たぶん、な」


(「学生街の殺人」東野圭吾)



3



世界の中心で、愛を叫ぶ



朝、目覚めると泣いていた。いつものことだ。

悲しいのかさえ、もうわからない。涙と一緒に感情はどこかへ流れていった。しばらく布団の中でぼんやりしていると母がやってきて、「そろそろ起きなさい」と言った。

雪は降っていなかったが、道路は凍結して白くなっていた。

父が運転する車の助手席に、アキの父親が座った。アキの母親とぼくは後部座席に乗り込んだ。車が動き出した。運転席と助手席の男は雪の話ばかりしている。搭乗時間までに空港にたどり着けるだろうか。後部座席の二人は、ほどんどしゃべらなかった。

ぼくは車の窓から通り過ぎていく車を、ぼんやり眺めていた。

道の両端に広がる田畑は、見渡す限りの雪景色だった。アキの母親は遺骨の入った壷を膝に抱えている。美しい錦織の袋にくるまれた壷、その中にアキは本当にいるのだろうか。

ぼくは夢を見た。まだ元気だったころのアキの夢だ。夢の中で彼女は笑っている。

夢が現実で、現実が夢ならいいと思う。悲しいからではない。楽しい夢が叶い、そこから現実にもどってくる間に、跨ぎこさなければならない亀裂があり、涙を流さずにはそこを超えることができないからだ。

(Kyoichi Ktayama)





 このベストセラー小説を、「GO」(2001年)で各映画賞を総ナメにした若手の行定勲(ゆきさだ・いさお)が、脚本化し、監督した。舞台は架空の町だが、原作者が愛媛県出身であるため、愛媛と香川でロケ。主人公の住む町は、高松市の東にある庵治町に設定された。この80年代の面影を残す漁師町が、ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。

 原作との大きな違いは、ヒットの担い手であった柴咲演じる律子の存在が、大きくクローズアップされていることだ。朔太郎(大沢たかお)は失踪した婚約者、律子を追って、四国に飛ぶ。そこは彼の故郷だった。彼は故郷に帰り、白血病で死んでいった初恋の相手アキ(長澤まさみ)の幻影を見る。

 これら現在と過去を結び、80年代を象徴する小道具が、ソニーの「ウォークマン」なのだ。彼は押入れから、この宝物を見つけ出す。2人は高校時代、恋愛日記ならぬ恋愛テープを交換して愛情を紡いでいたのだ。

 映画は、現在と過去を交錯させながらストーリーを進めるが、雨の降る日、朔太郎はかつて2人が通っていた高校の体育館を訪れる。ふと見ると、舞台の上で幻のアキがピアノを弾いている。

 彼女のとつとつと弾く調べが、時空を越えて、朔太郎の心に響いてくる。その曲はグノーの「アヴェ・マリア」なのだ。いうまでもなく、原曲は、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」の第1巻第1曲である。もともと、この曲は、クラヴィーアを弾く貴族の子弟の教育用にと、バッハが書き始めた練習曲のようなものだ。

 この簡素な曲を、グノーはそのまま移調して伴奏部に使い、その上に旋律を乗せて歌曲にした。歌詞は、カトリック教会の祈祷文「アヴェ・マリア」だ。「アヴェ」とはラテン語で「めでたし 」の意味。聖母マリアを祝福する、万人に愛される曲をめざした、グノーの、いわばアイディア商品だったともいえる。

(MOSTRY CLASSIC より)

「世界の中心で、愛をさけぶ」メモ
映画のロケ地香川県庵治町→ここ
ドラマ版ロケ地は静岡県松崎町→ ここ

この映画の感想→ここ







3



小津安二郎



■小津安二郎さんがいいのは、行儀のいいこと。

これぐらいの品のいい映画を作る人がいないのよ。「お父さん、行ってまいります」「そうか行っておいで」「お父さん、お大事に」「よし」。あるいは、みんな同窓会で集まるって会話するの。「君、若いとき、よく頑張ったな」「うん、昔、俺はな」。会話も上品なのね。

その上品さに西洋人はビックリする。日本人はこんなに上品なのかって。男ばっかりが5人、猥談が一つもない。それでもって「そうか、いこうか」「また、会うか」、なんて言うの。それは西洋人から見たら、驚くべきことなのね。

たとえば、「ねえ、あなた、どこへ行きますか」と言う。大阪出身のの溝口健二だったら、「あんた、どこ行くの」って言うでしょう。小津安二郎は違う。三味線の音なのね。「行ってきたか」「はい」「あったか」「ありましたよ」。こういう会話なのね。西洋人には絶対にない三味線の音なのね。

しかも、キャメラは全部下から撮っている。西洋人は下から撮ることは犯罪以外にないのね。それだけでビックリの上に、渦巻きの蚊取り線香でもビックリ。あんなにきれいなもので香取り線香なのかと思う。小津安二郎はその置き方がまたきれいだから。

西洋人にしたら、こんなきれいなものが置いてあって、障子と畳も背後にあって、ことさら美しいなと思うの。いま、日本の監督でそういうことをデリケートに考えてる監督はいない。


(Nagaharu Yodogawa)





3


言葉の大切さ



■世の中には、とんでもない実験をしてしまう人がいる。

「赤ん坊にまったく声をかけないで育てたら、何語を話すのか?」という仮説に興味をもったドイツの大王フレデリック二世(1194〜1250)などが、その典型であろう。

彼は、乳母や養母に、「赤ん坊にオッパイをあげてもいいし、入浴させてもいい。しかし、言葉をかけることだけは絶対禁止だ」という命令をした。

これは大変興味ある実験だった。ところが実験は失敗。なぜかというと、この実験をさせられた赤ん坊が、皆死んでしまったからである。これは13世紀の歴史家、サリンべリが書き記したものだ。

赤ん坊は、十分な栄養と清潔な環境を与えられながらも、死んでいった。人間の言葉というものは不思議な力をもっているのである。言葉は人を育てるものなのだ。


■子供にとって最もつらい仕打ちは、言葉で叱ることではない。

母親がどんなに声を荒げて怒っても、子供の心を壊してしまうことはない。本当につらい仕打ちというものは、無視することだ。

心理学データからみても、母親に小さい頃から煩雑に話し掛けられた子供ほど、
・夜泣くが少ない ・病気にかからない ・身体的成長が早くなる などの良好な結果をもたらすことが分かっている。

しかも子供に話し掛けることは、子供にとってだけではなく、母親にとっても大切だ。煩雑に子供に話し掛ける母親ほど、子供に愛情を感じてくることが分かっているからである。

結論。
子供には、どんどん話かけること。すると子供は何の問題もなくすくすく育ち、それを見て母親も愛情を感じるのだ。言葉は、どちらにも必要なものなのである。
 



3




無菌病室の人びと


■はじめて出会った時の I 嬢は、「谷間の白百合」という言葉がぴったりの、清楚とした乙女だった。私と同じ年のはずだが、ずっと大人びて見えた。栗色の柔らかな髪、大きな瞳、高くすっとした鼻、形のよい唇をもった彼女は、造化の神の傑作といってもおかしくはなかった。どうして、こんなに素敵な女性が、白血病などという業病に罹ってしまったのだろう。

夏目雅子の例を引くまでもなく、「きれいで、色白で、皆から羨ましがれるような良い性格で、食が細い女性」というのが、この病気になる要素かもしれない、と私はひそかに考えている。

I 嬢の白血病は、その当時のレベルとしては、かなり過激なやり方によって、寛解(一時的なおること)に導入できた。再発治療の場合、寛解はほとんど期待できないので、普通は延命のため、ずっと弱い治療をするのである。抗白血病剤の副作用で髪が抜けたり、肝臓が悪くなったりはしたが、時がたつにつれすっかり元どうりになり、彼女は退院した。


■4年後に悪夢はやってきた。白血病細胞は、彼女の頭のなかで、報復の時をじっと待っていたのだった。突然おこった激しい頭痛と視力障害のため彼女は入院していたが、髄液の中に、あのいまわしい「白血病細胞が検出されたのである。「髄膜白血病」と呼ばれる、白血病の晩期再発であった。


「先生が、男の人だったらよかったのに」

どういう意味なのかは、聞き返さなくてもわかっていた。22歳で発病し、おそらく「恋」をしたことがない彼女にとって、私が男性であったなら、きっと最も身近な異性として、恋に落ちていただろう。若い女性から見れば、私が青年医師で主治医ならば、恋の対象には十分すぎるほどの条件だったと思う。

残念ながら私は女性でレズビアンの趣味はなかった。でも、その時私は本当に男であったらよかったと、心から思った。男性だったら、彼女に恋の歓びや苦しみを教えてあげられたかもしれない。

人を愛することの悲しさを知ることで、人は優しくなれると、離婚したばかりの私は、よくわかっていた。


■それから3年、彼女が白血病に罹って12年目に入ったある日、突然激しい頭痛と吐き気が、この無垢な女性を襲い、両目はまったく見えなくなってしまった。

何も悪いことをしていない彼女に、神はどうしてこんなひどい仕打ちをするのだろう。

天国に迎えるための試練だとしても、あんまりだ、と私はおもった。考えうる限りの治療を行ったが、結果は無残だった。日ごとに衰弱し、意識が薄れていく彼女を診るのは、わたしにとって、すごい苦痛だった。もちろん彼女の家族にとっても地獄の苦しみだったろう。

急性骨髄性白血病と彼女の戦いは、12年3ヶ月で終わった。享年34歳。眠るように「死」が訪れ、死に顔が穏やかな微笑みを浮かべていたことが、私にとっては救いであった。


■私事になるが、11年つきあった同級生と結婚したのが、29歳のときだった。、原宿のマンションに新居を構え、甘い新婚生活をおくったのは、わずか数ヶ月だけで、すぐに破局がきた。夫の心が私より義母にあると知って、わたしは何度バルコニーから飛び降りようと思ったことだろう。

絶望の淵から私を引きもどしたのは、 I 嬢だった。彼女をなんとかしなければ、という思いが、私を破滅から救ったのである。私が明日彼女を診に行かなかったら、きっとがっかりするだろう。どんなに辛くても、私は生きて頑張るしかないのだ、と決意するには、しばらく時間が必要だった。

I 嬢の遺体を運ぶ霊柩車が、病院を出るとき、私は深く頭を下げた。

「ごめんなさい。そして、ありがとう」

心の中で、私はつぶやいた。10年以上の間、勇敢に白血病と闘い、一時は病魔に打ち勝ったばかりか、主治医の生命まで救ってくれた人への賞賛の呟きだった。



(「無菌病室の人びと」赤坂祝子)から




3



気まぐれキャツト


よくネコは女性にたとえられ、どちらも気まぐれでわがままな生き物の代表として言われています。これはネコにとって、まったく心外な事なのだそうです。

「ネコだからって、みんながみんにゃ、気まぐれじゃにゃーいニャ。なかには、そんなキャットもいるから、誤解にゃれるんでしょうけど。あんな癇癪もちの人間の女と一緒にされたらこまりますわ。にゃりりん♪」

ご意見番の野良猫代表、ミケコ嬢はこう言うのです。


彼女が、そう言う気持ち、わたくしにはよーく分かります。

猫的に言わせれば、ミケコ嬢の言うように、のんびり癒し系ネコ、おとなしく従順なネコ、まことに気まぐれではないネコも、確かにおるのです。人間の女性に比べればとてもおとなしくて・・・・・・いや失礼。


うんにゃ、でも、です。言うことはきかないわ、すねるわ、甘えるわ、食べ物のこととなると目の色をかえるわ、気まぐれネコはいっぱいいるじゃないですか。

しかしミケコ嬢はこうおっしゃります。

『にゃにを言いますきゃ。人間こそ、“そこがいいのよ可愛いの”とか言って、むしろネコのそういう気まぐれなところを愛しているんじゃにゃーのですきゃ?あたしたちは飼う人間のレベルに合わせて振舞っているだけなのです、にゃりりりん♪』

ははぁ〜。ミケコ嬢の発言は、なんとなく説得力があります。野良猫ならではの生き残りの処世術でしょうか。それともわたしがネコに甘いのか。

んま、そういうことにしておきましょう。ミケコ嬢には逆らえません。

でも、どういうわけか、そういう気まぐれなネコほど美しく、しなやかで、神秘的な容貌を持っているのです。



えっ、ミケコ嬢はどうかって?

ナワバリを超えた野良猫界のアイドル。とっても美猫なのです。

そうです。こまったことに、ミケコ嬢自身が、それはもう、そうとうな気まぐれキャツトなのです。あなたこそ、そのわがままぶりに気づきなされ、といいたいです。

にやり、 りん♪





ミケコ嬢の足






SEO対策 ショッピングカート レンタルサーバー /テキスト広告 アクセス解析 無料ホームページ 掲示板 ブログ