「いちばん大切なことはね、焦らないことよ。

焦らないこと。

物事が手におえないくらい入り組んで絡み合っても

絶望的な気持ちになったり、

短気を起こして無理にひっぱったりしちゃ駄目なのよ。

時間をかけてやるつもりで、

ひとつひとつゆっくりとほぐしていかなきゃいけないのよ。

できる?」




  





僕のやるべきことはひとつしかなかった。

あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置くこと。それだけだった。


はじめのうちはそれで巧く行きそうに見えた。しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中には何かぼんやりとした空気のかたまりのような物が残った。

そして時が経つにつれてそのかたまりははっきりとした単純なかたちをとりはじめた。僕はそのかたちを言葉に置き換えることができる。

それはこういうことだった。


死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。


言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。

そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。つまり、<死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆にいえば、死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられることはないのだ>と。

それは僕には至極まともで論理的な考えかたであるように思えた。生はこちら側にあり、死は向こう側にある。僕はこちら側にいて、向こう側にいない。


しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えられることはできなくなってしまった。

死は生の対極の存在なんかではない。

死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。

あの17歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら18歳の春を送っていた。


でもそれと同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。

しかしどう考えてみたところで死は深刻な事実だった。

僕はそんな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりをつづけていた。それは今にして思えばたしかに奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。





 




「どれくらい好き?」

「春の熊くらい好きだよ」

「それ何よ、春の熊って?」

「春の野原を君がひとりで歩いているとね、向こうからビロードみたいな毛並みの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒にころがりっこしませんか?』って言うんだ。そして君と子熊で抱き合ってクローバーの繁った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?」

「すごく素敵」

「そのくらい君のこと好きだ」

緑は僕の胸にしっかりと抱きついた。「最高」と彼女は言った。「そんなに好きなら私の言うことなんでも聞いてくれるわよね?怒らないわよね?」

「もちろん」

「それで、私のことずっと大事にしてくれるわよね」

「もちろん」と僕は言った。そして彼女の短くてやわらかい小さな男の子のような髪をなでた。「大丈夫、心配ないよ。何もかもうまくゆくさ」

「でも怖いのよ、私」と緑は言った。


 



「私のヘアスタイル好き?」

「すごく良いよ」

「どれくらい良い?」と緑が訊いた。

「世界中の森の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ」と僕は言った。

「本当にそう思う?」

「本当にそう思う」




SEO対策 ショッピングカート レンタルサーバー /テキスト広告 アクセス解析 無料ホームページ 掲示板 ブログ