僕はいまから八年程前に長女を亡くしました。

彼女は生まれたときから重い障害をもった子供で、十八年間の人生の中で一度も自分の力でベッドから起き上がることが出来ない生活を送り、そして死にました。

生まれてすぐからミルクが巧く飲めず、いつまでたっても首が据わらないままで、やがて視力が、そして聴力が失われ、身体の発育も健常児に較べればずっと悪く、四肢の関節は曲がり、自分の手で食事を摂ることも出来ないままで生涯を終えました。

最後の七年間は親戚の経営する病院に入院し、僕自身は仕事が忙しかったせいもあって、月に三、四度病院に見舞いに行くのが精一杯、という状態で良い父親とはいえなかったかもしれません。

それでも見舞いにいったときに天気がいいと、僕は娘を抱いて窓際に連れて行き、太陽の光を浴びさせてやることにしていました。

すると、視力のないはずの彼女が、光を感じ取ってさも嬉しそうにニッコリと笑うのです。目は見えなくとも光を感じ取る事はできるのです。

それは父親である私にとっても至福の時間でした。





さて、ここからはちょっと不思議な話になります。

急な死だったために、僕があわてて病院に駆けつけたのは死後一時間ほどしてからでした。娘は既に冷たくなっていて、一八歳にしてはずいぶん小さな体をベッドに横たえていました。

その夜、通夜が営まれ、お棺に入れられて祭壇に安置されている娘の遺体を目にしたとき、僕はなぜか「あ、もう肉体から魂が抜け出してしまっている」と感じたのです。

ふと祭壇の上の方を見ると、そこに娘がポコンと浮かんでいました。それは、生前の肉体の姿ではなく、白く光る玉のように僕の目には見えました。


無事にお通夜を終え、僕は翌日の葬儀に備える為に教会の駐車場にあった車に戻りました。車のエンジンをかけたときに、僕は助手席に死んだ娘がいる事に気がつきました。さっきと同じ光る球体のようでした。「一緒にお家に帰るか」と僕は娘に声をかけました。彼女は、「うん、一緒に帰る」と答えました。

不思議なことです。

生きているときは、言葉が喋れないために一度も会話をしたことがない彼女と、死んだ後ではまるで普通の人と同様に会話ができるのです。

といっても、それは鼓膜から通して伝わってくるものではなく、直接僕の心に語りかけてくるテレパシーのような通信手段でしたが、それでも意思は完全に通じあっていました。




いろいろなことを語り合いながら、車を運転していくと、途中で雨が降り始めました。家に着いたときもまだ雨は降り続いており、彼女は「そうかぁ、雨ってこういうものなんだ」と感激していました。ずっと室内で暮らしていた彼女は、雨というものを実体験したことがなかったのです。

その後、娘は(ヘンな話ですが)自分の葬儀にも出席し、しばらく我が家に滞在していました。

その間に「お前はなんであんな不自由な身体を選んで生まれてきたのだ」と尋ねたことがあります。娘の答えはこうでした。

「他の理由はあるけど、私が生まれる前のパパの心の状態のままだと、パパは弱者に対してのやさしさが持てない人になっていたかもしれないの。それで私は重い障害をもってパパの娘に生まれたの」

この言葉は僕にとって目からウロコが落ちるようなものでした。

たしかに、思い返してみれば当時の僕にはそういった傾向があったのかもしれません。やがて娘は、「もう天に帰るから」と言って去っていきました。

痛く、辛く、悲しい人生ではあったと思いますが、彼女の一生は無駄でも敗北でもありませんでした。障害をもつ子として生まれて、僕に思いやりの大切さを気づかせてくれたのですから。

これはすべて本当の話です。

もう一度言いましょう。どんな人生でも無駄や敗北はないのです。大切なのは無駄や敗北とみえたことから、何を学び取るか、なのです。


景山民夫「さよならブラックバード 」あとがきから <<1998年3月>> 



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