ミスティックリバー ネタバレ 考察


ミスティックリバー

アメリカの悲劇のようなものだけど、―まあ、アメリカン・シェイクスピアといったところかな。ある程度、様式化した手法を取るように努めた。というのは、25年前と今の間を行ったり来たりするから。25年前の出来事、関係者の現在の精神状態を反映されているからね

by イーストウッド監督




ネタバレ・勝手な考察感想

この映画を推理ものとしてみると、たいした映画ではない。勘のいい人なら、犯人はすぐにわかってしまう。しかし、この映画は前作「ブラッドワーク」同様、犯人探しの映画ではなく、哀しい業を描いた人間ドラマである。

絡み合った人間模様、人物設定に隠された比ゆ的な部分、伏線描写がとても奥深い。


それに気づかないと、単なる後味の悪いミステリになってしまう。宣伝で言うような泣ける映画でもないし、ただ単にデイブがかわいそう、救いが無い、という映画でもないと思う。
以下は、あくまで
私見はいりまくりの考察です。



デイブ(ティムロビンス@怪しいとっちゃん坊)闇をもちつづけた男

冒頭、“ボールを下水溝に落としてしまったことを「謝り」つづけた少年”デイブ。

“十字架の指輪をした男”に4日間もの間、虐待され、生涯、苦悩と狂気を持ちつづけた。路上にある名前はコンクリに“最後まで書かれない”で残った。デイブの人生はあの時に止まったままだ。事件以降、彼はコンクリに残された中途半端な名前のように、完全な彼ではなくなってしまった。

連れ去り事件はジミーとデイブの父たちが、“ベランダで野球の話”をしているときに起こる。その後事件は解決し、デイブは、“高校野球で活躍”し社会復帰を遂げたように見えた。しかし彼は、闇を抱えたままだった。

25年の時を経て、ジミーの娘の殺害事件がおこる。疎遠になっていたジミーとデイブが、お互いの“痛みを分かちあう場所は、父親達が語らいの場としたベランダ”である。

最後にデイブは“車の後部座席にのせられ”川のほとりのレストランまで連れて行かされる。彼はずっと苦しみから解放されたかった。妻のセレステにも心の闇を伝えられず、分かちあうこともできなかった。妻にも疑われたことを知り、絶望の果てにデイブは決心する。

ジミーに「娘を殺った」と嘘の告白をする。それは「オレを殺してくれ」という意味である。助かりたいからではない。自らの心の闇を消せない自分を殺したかった。そして彼は、最後まで許してくれと「謝り」つづける
 

―デイブの闇とは

・デイブが車内で少年を暴行しようとしている男を叩き殺したのは、彼自身に少年愛の欲求があり、それを許せなかったから。

・ドラキュラをみて自分が吸血鬼だと苦悩しながらセレステに独白するのは、自らの性倒錯に気がつき、いつか自分がされた犯罪をしてしまう恐怖があった。(吸血鬼に血をすわれると、自分も吸血鬼になってしまう。そして吸血鬼は十字架に弱い) 



●ジミー(ショーンペン@デニーロ臭)十字架を背負いつづける男

冒頭、“ボールを下水溝に落としたことに「怒り」つづける少年”ジミー。

彼は、連れ去り事件で、図らずもデイブを犠牲にしてしまい、十字架を背負わされた。乾きかけのコンクリに自分が書き始めなければ、事件は起こらなかった。無意識なのか意識的なのか、彼は“背中に十字の刺青”を彫る。文字どうり十字架を背負う。

娘が殺害されたとき、「自分が車に乗せられていたら、ケイティも生まれず、こんなことも起こらなかった」と吐露する。昔のデイブの事件は、娘の死とを結びつけて考えてしまうほど、実は彼のトラウマになっていた。

最後にジミーは、デイブを殺し、いや彼の望む通り殺してやり、闇から解放してやった。十字架(を背負ったジミーに)よって吸血鬼は天国へ昇天した。だがしかし、またしても犯人違いという重い十字架を背負ってしまう。

デイブを殺害した翌朝のジミーは“(ボールを落とした)道路の溝の近くに座り込み”異常なまでに落ち込む。この場所で遊んでいなければ、自分がコンクリに名前を書かなければ、こんなことも起こらなかった・・・・。こうなったのも自分のせいじゃないか。

あの事件によって人生が変わっていき、ケイティが生まれた。そして死んでいった。つきつめれば、ケイティの悲劇を生んだのも自分が原因なのだ。犯人は誰でもない自分じゃないか。だから、だからこそジミーは肩をがっくり落としてへたり込んでしまうのだ。すべてがあの事件からはじまっていた。

彼は私刑したレイの家族に贖罪として“毎年多額の金を送金”しつづけていた。これからはデイブの妻、セレステへ送金していくのだろう。ある意味でショーンに捕まったほうがジミーは解放されるのだが、ショーンは捕まえない。彼の一生はこれからもずっと十字架を背負う運命なのである。永遠に彼は罪の意識にさいなまされ、自分自身に「怒り」つづけて生きていく。



●ショーン(ケビンベーコン@ソケット鼻) 傍観しつづける男

冒頭、“ボールを下水溝に落ちたのを「傍観」する少年”ショーン。

彼は刑事になり、ジミーの娘・ケイティ殺しの真犯人である“口の利けない少年”(ブレンダンの弟)を逮捕する。ショーンはすべて分かった上で事件を銃の暴発だという嘘の理由で処理をする。それはブレンダンの弟の口のきけなくなった本当の理由がわかったからだ。

ジミーによって少年の父、レイは殺された。ショーンは今回の捜査過程でそれに気がつく。ジミーによって少年は父の愛を失った。かわりに少年は兄ブレンダンから“父の愛”を求めた。しかし、こんどはその兄がジミーの娘に奪われそうになったのだ。だから少年はケイティを殺したのである。
(※)

すべての元凶はジミーが少年の父を殺したことから始まったといえる。業である。そういう理由をショーンは気づいてしまうのだ。

少年が口の利けなくなったのは、
兄からの愛を受けようと、かまってもらいたいからである。原因は精神的なものだ。父を失ったことが遠因となり心が病んでしまったのだ。

この事件のお陰でショーンは、無言電話の主である妻が精神的な愛を求めていたこと理解する。話さない電話なのでなく、話せないことに気がつくのだ。そしてその原因作っていたのはショーン自身だと気がつく。だから、彼が本気で妻と語り合い、自分から心を開くことで彼女との関係が開かれていく。

最後の指ピストルでジミーに向けるのは、死体が見つかり事件が発覚したら捕まえるぞ。という意味でもあるだろう。今はデイブの死体がないので、ただの行方不明、事件にすらならない。知っているけど、捕まえないよ、ということだろう。

でも、それはたんに
親友としての情けではない。ジミーが罪を償うために、残された人たちに金を送りつづけている姿を知っているからこそ、ジミーが苦しんで苦しみぬいていることを知っているからこそ、現時点では、見逃すのだ。ショーンは、またしても「傍観」する

(※)ブレンダンの弟が、そこにいて、たまたま拳銃が暴発した(すべてが偶然)のだとしても、殺意はあったように思える。すべてがまったくの偶然の連鎖というカタルシスでもいいが私はそう感じた。



●セレステ(デイブの妻)

セレステは、デイブの心の闇を救ってやれなかった。デイブの不信な言動が彼女を不安にさせた。デイブを信じられず、ジミーに心を開いた。原作ではセレステはジミーに惹かれているという。実は彼女の心の底にも屈折した感情があった。

ラスト、デイブの息子が消沈しながらパレード車にのり行進していく。父を失ったデイブの息子のこれからの人生は、ブレンダンや彼の弟のように、“父の愛”を求めながら、深い哀しみを伴って重くのしかかっていくのだろう。そしてそれに気づいたセレステは息子に励ましの声をかける。

同時にパレード越しにアナベスに笑みを浮かべながら挨拶する。そこには、デイブと同じような苦しみと凶気はらんでいるように感じられる。セレステは心に闇を持つ。彼女の内通でジミーはデイブを殺したのだ。デイブがジミーに殺されたことを確信しながら、それを胸に秘めて生き続ける。それでも笑みを浮かべてジミーの妻・アナベスに挨拶するしかない。アナベスに対する複雑な想いを交錯させながら。こうして息子や妻達に業は連鎖していく。




●アナベス(ジミーの妻)

ジミーはアナベスの兄弟の罪をかぶって服役し、その間に彼は妻(ケイティの母)を亡くてしまった。彼は出所してから、アナベスと結婚する。殺されたケイティは、前妻の子で、彼女の娘ではない。ジミーがアナベスと結婚した理由は、多分に、母を失ったケイティのためでもあった。母が必要なときだったからだ。

アナベスとっては、ケイティの存在はジミーを独占できない障害でもあった。最後に彼女は吹っ切れたように彼ににけしかける。「あなたはこの町の王様なのよ。支配者なのよ」(だから間違ってデイブを殺したっていいのよ)。そしてその表情はジミーを独り占めできて嬉しそうでもあった。

セレステにやさしいジミーに密かに嫉妬していたアナベス。デイブの一件でジミーの苦悩を手中にし、弱みを知り、コントロールすることが出来たことで、セレステに対しても、優位にたった。あのラストの得意満面な笑顔は、象徴的である。



●その他

・シェイクスピア劇「マクべス」のマクべス夫人を思わせるアナベス。
スコットランド王に仕えるマクベス。マクベス夫人は、王を殺して王位を奪うように夫をそそのかす。妻の言うがままに王を殺し、友人をも殺したマクベスは、予言どおり念願のスコットランド王になったものの、死者の幻におびえるようになり、マクベス夫人は、自らの手に、流された血の色をした幻を見て狂乱していく。マクベスとマくべス夫人の結末は死である。

・最後にアナベスとセレステを対峙するかのように流れていくパレードの隊列が、ミスティックリバーを暗示するのならば、デイブの息子もまた父親同様あの澱んだ川に飲み込まれていってしまうのだろうか・・・。

・この映画には一貫して「父の愛」と「母性」が描かれている。それぞれのその想いを考えながら見るといい





総括*
この一見救いのない後味の悪い映画、そして見終わったあとなんだこれは?という映画を自分ながらに納得させるためにいろいろ考察してみました。デイブがなぜ「俺がやった」と言ったのか。ショーンの指でピストルを向ける意味はなんなのか?最後のジミーの表情、態度にどう思えばいいのか。アナベスがすべて仕組んでいたのか?・・・ いろいろな見方が出来ると思う。映画館で一度しかみていないので上記に記した考え方は的外れかもしれない。いずれまたもう一度見直して再度考察してみたいと思う。
 


追記

上記の見方はいくつか相当に見間違えていたようだ。だけどそれは初めてみたとき感じた感想なので、それはそれでいいのだと思う。それで納得したのだから。

やはり-、デイブは助かりたかったのだ。だから最後に嘘をついた。
(ティムロビンスの解釈)

彼が少年のとき捕まったのは正直に遠くに家があるといってしまったからだ。
ショーンとジミーは嘘をつき車に乗らないですんだ。
正直者は罰せられる。そういうトラウマが出来た。

事件から解放されて以降デイブの人生はすべて嘘で塗りつぶされる。
なにもかも小さなことからウソだらけで生きていく。それが最悪の事態に繋がる。

デイブの最後の嘘は、正直にいったら少年のときのようにまた苦しみを与えられると思ったから。子供の頃のジミーやショーンのように嘘を吐けは助かると思った。


そして、最後のショーンの指鉄砲の意味。
或る人はジミーを許すという意味だ、といい、
ある人は捕まえるぞ、という解釈をする。
それらすべて解釈は見ている人に委ねている。
誰が善で誰が悪なのか、そもそも善と悪ははっきり区別できるのか。

いずれにせよ、わざとさまざまな解釈ができるようにしている映画だ。
だから作り手がわの監督たちにも答えはない、そういうことなのです。


そしてブレンダンの暴発した玉がケイティの乗った車にあたり、ホッケーのスティックで殴るという偶然が織りなす連鎖は(やはりケイティ殺害は偶然)因果応報、デイブの息子の世代へと繋がっていく。・・
(DVD音声解説鑑賞後の追記)

さらに2chまとめブログより

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